テキスト1986
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あざみ花を志す人達にとっては手が出ない。高度な陶芸技術をもっ日本には最高級品と最低級品だけあって何故その中間に素晴らしいデザインされた花器が多量に生産されないのか不思議に思う乙とがある。その西独の白い花瓶にアリウム二た。大きな重量感のあるギガンチユlムの淡い紫紅色には黒か濃紺、或いは白等対照のはっきりする花器を使わないと部屋の中においた場合その形の鮮明さと美しさの大部分が消えてしまう。花型を考えるよりその方が大切である。とくにギガンチュlムはその花器の色との対照をきわ立たせるため低くいけるのがのぞましい。ギガンチュlムと花器でうまく色彩構成を作っておけば、ロ1ゼンパッキアヌムもカラジュlムも楽に挿し加える乙とができる。政紅色の繭は古くから野些するピンクの野前を改良したものである。冬の問からフレーム栽培されて山まわっているが水揚げがあまりよくないので色には魅力を感じながらつい敬遠してしまう。だが五Iムハ片には多少よくなってくるので時々作例のような小品花としてい勉くいけている。乙れぐらいの大きさだと毎朝水切りするのも簡単で数日間その美しさを保つことができる。種Kカラジュームの葉をそえてみ竹寵の蔚あざみスターに私も知らないような字が人目をひくように美しく書かれ、それをもとにしてうまくコピーがまとめられているのも見かける。それに戦後漢字制限が行われたのにかかわらず書道が復興し書道展の聞かれる回数も戦前の何倍かになっているだろう。会場には漢字制限などどこの国の話かと思うほど古い難しい字が並んでいる。私もあんないい字が書ければと思うのだが稽古すると乙ろまでは行かない。漢字の面白さは象形文字から出発して一字一字が意味をもっていると乙ろにある。中国では昔から書を絵画より上位においているそうであるがもともと絵文字が長い歴史をかけて洗練されつくしたものなのだから当然の乙とだろう。だが洗練されすぎて書いた人しかわからないような草書は好きではない。誰にでもはっきり読めて、しかも堂々とした字が私は好きである。そのような字には気どりのない高潔な人柄が感じられる。脱線のまま終ってしまいそうだが難しい漢字も最初はほおえましくなるようなかわいい絵文字だったのである。とくに回数の多い難解とも思える字ほど親切に作られているのだと言ってもいい。常用漢字さえ知っていれば日常何の不便もないのだが他にいくつか変った宇を知っておくのは楽しみの一つといえるだろう。5 ノ

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