テキスト1986
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』VJ川’AυのS生きていて、四(死)、九(苦・窮)−Gを嫌ったりする。いつかも書いたが、四国や九州をどうよべばいいのだろう。京都たって凶都と同じ発音なのである。私には五穀を禁花とする植物への敬愛の気持は尊く感じられるが、連想による禁忌は、人の心の弱さ、というより、愚かさを露呈しているのである。ところが、五穀、或は食用作物に対する悌りの気持が生産の豊かさのおかげでうすれ、何もかもが花材として随分勿体ない使い方が平気で行われるようになった反面、愚かな禁忌は根強く生き残っているようである。縁起を担ぐのはいいが程々にして、美しい花やとりあわせを素直に賞したい。こういう禁忌とは少し違った意味で、生花の枝数は奇数で仕上げるという原則がある。奇数が吉数ということからそうなったのだろうが、それよりも私は定められた枝数で一瓶の生花を姿良くいけ上げる面白味に重きをおきたい。とくに三枝、五校という少ない枝数の生花の場合、ここに小さな一枝を挿し加えれば良い形になるのに、と思っても、そこを六枝でなく、五枚で形を整えるところに、工夫が生まれるのである。生花も枝数に制約がなければ、ここまで技巧は洗練されなかったかもしれない。ゆ今う同もリも阿昔は五穀(米・変・粟・豆・黍又は枠)や果物等、食用になるものはいけることを禁じられていた。点は、名前のよくないもの、臓のあるもの、毒のあるもの、不吉なことを連想させる組物は禁花となって川」美に主服がおかれるようになると、禁化という考え方は後退し、あらゆる机物が花材として用いられるようになった。ところが食用の五穀や果物類を花材として、何のためらいもなくいけられたというと、そうは一Zいきれない。多少のこだわりのあるのが普通一般の感覚であろう。方々のいけ花展をのぞいても、稲がいけられているのを見かけることが殆どないのもそのせいにちがいない。私は一度だけ稲をいけたことがあるが、それは田に机えられたものではなく、回刷、えの残りの苗を、用水路に折てたのが勝手に育った一株だった。お米の一約一は汗の背の結品として尊んだのは、米が国の経済単位として故も重要な産物であり、長い間おろそかに扱うことを政策上祭じられていたからでもあろ、っ。だが為政者の作りあげた、米に対二摘。農民の労する政策上の思想よりも、農民と、町人の聞に、お互の勤労を尊重しあうという気持が通いあっていたことの方が、五穀尊重の感情は、より自然なように思える。そこには、お互いの汗の結晶を大切にしあう心と共に、自然の恵みに対する感謝の気持も生まれてくる。そして与えられたものは組末に扱えなくなる。私に析がいけられないのも、サンキストレモンを串刺しにして花瓶にいけてもなべないのはそんな気持がどこかで働いているからだろう。その点いけ花の一分野である盛物は、食用の果物や野菜を後めたくなく使えるが、それは観賞したあとも、食用に供し得る状態で残せるという安心感があるからだといえる。いけ花の美しさの桜底には、植物に対するそんな心遣いがひそんでいるようである。禁花のもう一方に、名前のよくない航物や、不吉なことを連想させる花があげられているが、こちらの方には、その理由付けに首をかしげたくなる。例えは、新築祝いに亦い花はいけないという古い花伝蓄の一条がある。火災を連想させるからだという。又立花によく他われた桧は「火の木」である。桧造りの家の新築祝いに何か祭花であろう。そういう阿呆くさい禁忌は未だに一h一五五穀に対する遠慮、人間が勝手につけた植物名なのに、その名称に対するこだわり、構成上の制約、古典いけ花には多くの禁止事項がある。それらは古くからのしきたりとして鵜呑みにせず、本を読んだり、人とも話しあってその意味を知らなければならない。花をいけて行く上で知っておかなければならないことも多いかわり、無意味というより、弊害になっていることも沢山含まれているのである。この十年ぐらいの聞のことだろうか。古さへの郷愁がしきりに雑誌やテレビでもとりあげられ、新しき、便利さだけが人の心を豊かにするものではないと宣伝されている。手仕事、手造りという言葉もよく使われている。だがそれが、単なる流行、或はもっと浅い意味でのファッションというものであるなら大変危険なことである。よく調べもせず、昔のことなら何でも美化してしまうのは、程度の低い向古趣味というもので、それはいつの時代にも排斥されてきたのである。私は古い型の人間である。だが守るべき伝統を間違えないよう暮らして行きたいと常々心がけていヲ令。花器実りの秋には随分変った生り物もできる。とくに瓜類には、雀瓜のように直径1Hンほどの小さなものから、直径mHJで重きがmJという馬鹿でかいものまである。作例に使ったのはベポ南瓜。ポンキン、或は飾り南瓜ともよばれている。前記のmJもある南瓜もその種で、アメリカではハロウィーンのの夜、果肉をくりぬいて目鼻を彫りこんで、中に明かりを入れて飾る。南瓜は昔から、文人的な盛物によく使われていたが、小さな色の美しいペポ南瓜は、適当な蔓につけて投入にした方が、その変った表情が生きてくる。この作例にはキウィフルーツのしっかりした蔓にペポ南瓜をとりつけている。少し変った感じにいけてみたかったので、柔かみのある白い大きな花瓶を使い、お化けアンスリュlムをとりあわせてみた。このようないけ花には、お化けアンスリユ|ムは大変都合のよい花村で、水際の処理にも適している上に、緑の部分もあるので他の葉を加えなくても、みずみずしさを与えることができる。花村ペポ南瓜お化けアンスリユ|ムキウィフルーツの蔓白利変形花瓶〈表紙の花〉J』時代が変り、とくに戦後、花の造志凡本又3

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