テキスト1986
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まえおさみよりしろ。よたてみさフQうぷ乙みわら10 先日(7月お日)未生流の肥原碩甫家元のお招きで、同流の夏期研修会で立花の尖技講演を行なった。まとめていただいた辿記録を紹介した桑原子量反流家元桑原一つの流儀がいけばなの歴史をどう考えているかによって、いけばなに対する考え方にも特色がでてくると思う。私のいけばなの歴史のみかたを少し話してみたいと思う。いけばなの初期、常と磐きわ木ぎをより立てて神の依乙れは日木のみでなく世界各地でみられたそうであるが、北欧など針葉樹の多い地帯では、川知在のクリスマスツリーが立花の初期の其の立て方と大へんよく似ている。イギリスのし人きな教会ではピラミッド型にとりどりの花を飾つであるのがみられるが、乙れはキリスト教以前の北欧の古代信仰と結びついているのではないかと考えられる。室町中期から後期は現荘の日本文化の基礎をなす部分の原形がほとんど出来あがり、立花も安土・桃山時代を経て江戸初別に完成し、現在の形となった。室町初期の立花は、現花みられる立花実演立花の実技講演花店の仏花のようなものと考えればよい。室町時代、将軍側近の同朋衆げ花から将軍の座敷飾りとしても似つ仙渓・前向・見E越し)であったが、江戸時代には、それに胴と控が加わって九軒の除穴〈の立花凶で九つ道具であの活躍によって各種の芸能の発達を見、いけばなにおいても神仏への供かわしいような大きく栴式張ったものがいけられるようになり、たではなから立花と呼ばれるようになっていった。最初は「直すぐじ其ん」と呼ばれる真っ白な形のものから、其を傾けてたてるいう市やかな時代背畏のもとで、町衆に広めるのを念頭におかれたせいもあり、色もはでで、形も動きがある華やかなものへと移っていった。役枝も室町・安土時代までは七つ道具の立花(其しん・しよ正う真しん・そ副えう・け請なが・し流枝つ道具の立花となった。ー以下スライドによる解説と立花実演が行われたl。山桑原専底流の始祖、桑原宮森判仙渓は点亨・元禄の時代の人で、当時は芭蕉、西鶴、近松、光琳の活躍した時代、スライドの作品は宮杯る。乙の時代以前の心立花を能にたとえるなら、桑原専民流の立花は、’歌制作伎や浮世絵の傾向ともいえよう。初代のものも、乙の時代の影響のもとにはなやかで動きがあり、多彩なものである。大寺院のものから身近かな人間のための立花になっていった乙とがうかがえる。立花と生花をくらべると、立花は依代の名残りで水ぎわはまっすぐであるが、牛花の水ぎわは斜立である。乙れは発生の初めから、神仏を意識せずに考えられたものともいえつくったもっとも美しいものを神に供えるという意識があったのではなかろうか。私が生花に興味をもつのは、神様が相手ではなく、初めて人間同士が観賞しあう花が生まれたとみられるその点においてである。ω立花Kは頁(直真)行(除真)草(砂物)があり、真、行は立花瓶(緯端の原形)KLAて、草は砂鉢を用いる。瓶の中にコミワラをいれ、立幹を立て、それに花材をクギで打ちつけたり、ハリガ、不で留めたりして各校をその位置に山すが、すべての校は胴のうしろから出す。一組い花を一向い所にみせるには竹の叉筒をつかったり、竹グシにワタを使い紙を巻いて水が上まであがる方法なども考案された。この幹つくりの立花と、いま一つ生だての立花がある。乙れはすべての花材の切り口が水にはいっているもので主として草花などの場代に用いる。間用意するものとしては立花瓶、コミワラ、タテミキ、受う吋づ筒っ。尖演のものは、タテミキに松の枝をクギとハリガ、不で留めて真とした。副にはすすきの葉、かきつの業等なびく花材を用いる乙とが多く、受筒をつかう乙とが多い。請は真の枝を受けとめる役目をし、穴(に添うて流枝、控、王立、見越とたて、正真の前にビワの大葉を5枚組んでいれ、乙れは前出の竹グシで水をあげている。胴は正文の前に張りだした形で、固まりのものでつくる。その前に前置として葉の込んだものを用いる。技巧の点では生花の技術が立花の基礎になる点も多いが、立花には九つの校があり、花材は大抵の場AH九都以上使うので取り合わせに背心することが多く、いけあげるのに時間を要するのでスタミナの配分も大切になってくる。込藁をつくりながら花材を眺めていると発想が一明いてくるのは、書道におけるm訟をする動作にもたとえられょうか。ろ代しとしていた「たではな」がある。「の除きし真ん」の立花となり、元禄時代と依りし代ろではなく、いうならば人間の10

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