テキスト1985
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きいれん制連会の歴史は随分古い。奈良朝の終り頃から平安朝の初期にかけて「蓮葉の宴」として古書に記録されているそうだがおそらく中間の影響であろう。中国では「詩経」に三千年前の中国人の蓮に対する気持が書き残されているが美しく催しい詩である。乙ういう詩を読むと日本人は有史以前から蓮の花を眺め続けてきたに違いないが文字を持たなかったためにそ観蓮の気持を今は知ることができない。(川町LVU仏教の渡来以前と以後では蓮の見方が大きくちがっていた筈なのに残念な乙とである。んでいたせいか蓮の花には仏教的なもの悲しきより明るい女性の美しさを感じる。そのせいで「蓮は過去、現存、未来の三世の相をあらわす」などという古典的ないけ花の発惣にはどうもなじめないのである。有史以前の日本人はおそらく中国人同様蓮の開放的ともいえる切るく翠かな私は小さい時から中国文学になじ美しさ、時にはなまめかしきも感じられるところを愛していたのではないかと思っている。私が越の好きな理由はその辺にありそうである。漢詩や胎詩にも蓮はよく山てくるし、読物類にも色々な形で登場する。中凶では蓮の花は芙蓉、蓮台(子房)が連、蓮根を耕というが、蓮は恋、憐と音が通じるので先月号の、採蓮の曲には恋を摘みとるという意味もあるのかもしれない。そんな乙とを恕いうかべながら今年も観連会に参加してきた。れんれんれん持(かみしも)をつけて何とも不景気な顔をしている。早朝五時から祇園祭巡行の則意をし、九刊からか妙山の御供として町内を出発し四条通、河原町通を経て乙の写真をとられた御池の寺町のあたりではもう一時をまわっていた。祇園祭りは平安時代に疫病退散祈願のために鉾をかついで行列したのがそのはじまりとされているが、川引在の巡行のお供についてまわれるほどの人は疫病の方でさけて通る健康体をもっているにちがいない。東京、大阪、京都の白木の三大祭の中で京都は第二次世界大戦の戦J州はまぬがれたとはいうものの応仁の乱以後何度も戦乱にあい大火花もあってきたがその初度立派に町衆の力で復興してきた。京都人は諸事控え目だと評されるが向分の住む部の文化に底知れぬ愛着と誇りをもっているのだろう。鉾町、山町の人々の中には何代も住み重ねてきている人もいるし、新しく移り住んだ人も多い。私も実家の父は東京人、母は大阪人で京都に住みついたのは私だけである。私のような人間でも私の町内の浄妙山に誇りと愛者を探く抱いている。祇凶作小りを京都の庶民の々で支えてい乙うとするかぎり京都は日本の都であり続けるだろう。\御池通り寺町のあたりで/君提供/伊藤望上〉れんぐう御供11 \

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