テキスト1985
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かさっぱた私達が普通手Kする花の中で最も上品な花の一つが杜若であろう。それぞれ一生懸命に咲乙うとしている花に優劣をつけるのは心ないことではあろうが、力強さを訴える花、陽気そうな花とか我々が勝手に想いをめぐらせている。いろいろな花のとりあわせを考えていけてみるのは一つの演劇に似た場をつくり出す乙とに近い。しっかりと主役を演じる花、脇をおさえる助演者達の役割を想像しながら花をいけて行くのも一つの方法だろう。いけ花にはいけ花独自の発想、それは日本人の自然観が根底にあって季節の風の肌触り、雲の流れ、せせらぎの静かな声を聞こうとする心持を花に托してみようとする乙とといってもいいだろう。そのような気持を花で表現できるまでには随分歳月もかかる。ある時期には基本型をくり返し、他の段階では何か自分自身の発想方法を持たなくてはならないだろう。簡単な例だが杜若と白パ一フというとりあわせは真夏の来客にはいいもてなしになるだろう。てっとり早くいけられて上品さもあり何よりも涼しげである。花材四季咲社若花器ガラス深鉢夏の杜白パラ及び難い美しさがあるのを知るのが芸の究極への道であるという考え方がある。いけ花を習いはじめたとしても、十代や二十代では一応の型を覚えるだけのどく一般的なたしなみの一つで終るかもしれない。だが興味がつのって稽古を続けていれば関心は花器から美術工芸、文学にひろがり、いけ花の歴史、その精神的意味、自然感も深まり人にも大きな影響をあたえるだろう。そして円熟の境地にある芸風の存在を理解するに至る。その境地に達し得るのはどく僅かな名人であるかもしれない。それでも静かに、そして心豊かに老境を迎えようという日本的な文化を背景に持っているのは大変有難いことである。又無理にも若さを装う必要がないのは人聞にとってどく自然な生き方でもあろう。以上書き癒ってみた乙とは日本文化のみが特有するものではなく、源流は中国文化にあるのかもしれない。欧米の映画俳優の中にも若い頃よりも・年がいってからの方が好きな人も少しはいる。反対に日本の歌舞伎役者の中には柄にもなく新さを演じようとして老醜を感じさせる舞台を見る乙ともある。熟年とよばれる年令になってからの生き方について多くの考え方があるだろう。私には日本的な生き方が最も理に適っているように思える。若5 / ι観

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