テキスト1985
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h、帆ツさんざしやぶさんざしあかふさすぐり七月の末頃になると時々花屋に薮山査子とよく似た赤房酸塊が売られている。薮山査子とよく似ているのは当然で同じ虎耳草科の酸塊属の植物である。注意したいのは薮山査子は虎申告耳申し草た科、六月号の8頁の生花に使っているピンクの花の西洋山査子はパラ科の山査子属で全然別杭の植物ということである。日本には単に般す塊ぐりとよばれているものが長野県に野生しているが、赤房酸塊はヨーロッパの原産屈で寒冷地で栽培されているようである。いけ花として使うのは七、八月頃実が赤く色付きはじめる季節である。色は真赤に熟したものから、ごく淡く自に近い緑色までが二房に述らなり、透きとおったガラス玉のような美しきである。いけるについて、まず花屋で見かけて買う場合できるだけやわらかく包ませる乙とである。固く包むと柔かい実が三分の一ぐらいつぶれ、それをとりのぞく手間は面倒なものである。更に実を覆いかくすようK葉が密生しているので充分透かせる。その上で淡色のおとなしい草花をとりあわせるのがよい。花型は小さめにまとめ、酸#’塊の色あいの変化がよく自にとまるようにいけたい。花材赤あか房ふさ酸す塊ぐり紅羊歯花器飴色粕壷桔ききょ梗う淡桃色べにしだユキノシタすぐりって中途半端な知識や経験よりも行動力が大切であり、頭は少々固い方が便利な時代でもある。私が今までに蓄えた知識や経験はとるに足らないものではあろうが、それをうまく活用する思考の柔軟さがあれば若い時より而白い人生を経験することができるはずである。或いは若い時と質のちがった生き方になるのかもしれない。熟年という言葉はある女性ジャーナリストの造語だったと忠う。どういう意味で造られたかの説明は忘れてしまったが、今の私には、自分の未熟さを向覚する年令と受けとっている。果物が熟するという意味なら何となく、木からボタリと落ちかかるような感じがしてあまり気分のいい熟ではない。諸事に熟達の熟にはあまりにもぎ乙ちなくあやふやな向分である。勿論円熟の熟ではあろう筈がない。ふりかえってみて、私はこの程度の人間であると知る時、未熟さを痛感するのである。だがそれに気付いた熟年に干つてはじめてほのぼのとした向由さがこれからの私に開けてくるのではないだろうか。今までため乙んだものを使う楽しみ、袋をひらいてみればガラクタばかりにちがいない。でも何年もかかって集めたものには愛着もある。ガラクタだってうまく使えばそれなりの美しさをあらわすことが(四頁下段へ)3

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