テキスト1985
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いるとりいろどりひまわりしまふといすだれとうむしろ節K組み乙まれた色彩である。降りやむと徐々に裾の方から山の色が見えてくる。れ仰がかった淡町議色である。山やまひ盛だに白い水ぷ気のような芸を残しながら頂上まで罫れて行く。水墨両が動いているようである。梅雨K惨むやわらかな中間色は七月上旬の日本の色だと思う。梅雨があけると強い日差しにすべての色がぎらぎらと浮かびあがる。そして各地で夏祭りがはじまる。金銀赤青の原色が熱気に溢れた街々を練り歩く。乙れも私達の暮らしの季季節と色彩の組みあわせは日を追って微妙に変化して行く。だが自然の中の花にも季節を乙えて同じような色に咲くものが沢山ある。その辿いを季節のうつりかわりに従っていけ花の上でどうとらえて行けばいいのだろうか。彩ーーーいろどりーーという言葉がある。着色するという意味の他に配色という志味にも使われている。旧暦の九月のことを、緑の山に色づいた木々の葉が彩となるので色取月ともいう。このように解釈されていると乙ろをみると彩とは複数の色の組みあわせと考えてもよさそうである。私達はよく「笹百合の彩に桔梗をそえ::」といったりする。主材の季節感を更に深め、きわ立たせるととであり、彩をとりあわせと言い季彩薄睡蓮・ときのはなカラジュlム花器黒水盤界3りしたそれぞれの花の想い出にまかえてもいい。乙のとりあわせという言葉は花と花とのくみあわせ以外に、広く花器とのうつり具合、置く場所にしっくりあうかどうかというと乙ろまでふくまれていると考えたい。いけ花のたのしみの深さはとりあわせに季が加わると乙ろにある。ただ単に花と花器の配色の調和だげが問題になるのではない。草木には生命があり、それは季節にそって呼吸している。作命をもつもののうるおいをいけるのである。木の葉や草の葉、花や官の色、形、芥り、何となく感じられるあじわい、やわらかさ、かたさ、細かさ、冷たさ、多くのものが色調の中にとけζみ、それが綜令されて置かな情趣として感じられるものなのである。その上私達が成長するまで封のまわりにあって共につわる感情、文学や絵画にとりあげられた数々の花の詩的なものへの共感、一輸の花に対してもそのような背景が主ねあわせられている。その伯趣の感じとり方の深さ、その背景の蓄引の大きさが花のくみあわせ、とりあわせを決定するのだといってよい。いけばなでは花の持味を知るということはそのような乙となのである。たとえば睡蓮の大輪の見事なのを一本とって眺める場合、花だけ見ていたのでは美しいには違いないがとりたてて清涼感をおぼえるものではない。だがそれを青磁の大きな水盤にたっぷりと澄んだ水をたたえた中に、浮き葉と共にいけてみると、静かで涼し気花見える。むしろ澱んだ池や沼に咲いている睦蓮よりさわやかな感じさえする。更に縞太蘭でもそえれば池の百を通る涼風にまで想いをはせる乙とができるだろう。とりあわせは一輸の花を挿すためにどの花瓶を使おうかと考えるところからはじまる。部屋の片隅に一輸の花が時の花として見事におさまればそれはもう立派ないけ花である。省略をかさねると一枚の葉、一筋の細枝もおろそかにできない。一輪挿しにかける行きとどいた配慮は、どんな大きさのいけ花にも不可欠な要件である。乙の辺で夏のいけ花について少し考えてみよう。テキストでも度々とりあげられているテーマなので目新しくないかもしれないが復習のつもりで読んでいただきたい。まず一般的に求められるのは清涼感のあるいけ花であろう。暑い盛りをすごしやすくするため簾をかけ、藤箆を敷き、粁るものは薄くて風通しのよい淡色が多くなり、食べ物も淡白なものが求められる。或いはこれと反対に夏そのものをお認う歌かするといった暮らし方もある。向日葵やカンナの花が自のくらむような強い日差しをまともに受けなが4

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