テキスト1985
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TA−」ι刻而阻μぞうかくすべほんぞ・3しゆっしようト旬州制水をかえ、ぷ切りしている私の家では苛薬も四日目位から随分短くなってしまう。そして最初にいけた形とは、だんだんかけはなれてくる。五H自には乙んないけ方に変ってテーブルの上にのせられる。他の花と一絡に大きくいけられた苛莱はある程度.距離をおいて眺めるので全体の中の一部でしかないが、満開の有薬を何輪か小さな花瓶に溢れるようにいけてテーブルの宍巾に飾るとその細部の美しさがよくわかる。遠自には純向と見えてもほんのりピンクがかった部分、細い亦い,縦も入っている。そして重なりあった花弁にあたった光の作り出す複雑な陰影。天井の電気を消してスタンドの光を下からあてたり横からあてたりしながら見てい右とまるで舞台の上で白い衣を粁た人の動きのように見える。小品花に感じる美しさというものは近くに寄って花を見るとき、よりζまかい部分まで拡大されて自にうつる未知な向然にふれた時の感嘆なのではないだろうか。雄大な風旦RK心をうたれ、近寄ってその繊細な構造に敬胆さをおぼえる。自然を向分の手でいける乙とでその両耐を感じとりたい。花材有薬抽ph刷花瓶ろ・っ。人いられてきた植物も牛,活が笠かになると美しいものとしてみつめる心のゆとりも生まれてきた。いけ花はそのゆとりの表現ともいえるものであ間と植物とのかかわりあいの中衣食住に利用した面も大変大きいが病気の治療Kその薬効を求めた而の大きさも見逃してはならない。そとには植物の衣食住に与えてくれる恩恵の有難さと違って植物の不思議なはたらき或いは神秘さを感じたに相迷ない。乙の神秘さはどこかで宗教に結びつくものだったようである。その最古の記録としては紀元前三には薬草岡が作られ、医療の教育を受ける学生が集められていたという。そして医師はすべて神宮であった。彼等の経験によって効果のあるとされた植物の府知や利用方法を記録したものを本草書しよ、ほそんの理論を本草学とよんでいるが近世の縞物学の原初の姿である。本草学的知識は人類が未だ農業も知らない原始的な生活をしていたとろから動物的本能としてもっていたものであろう。だから物事を記録する術を知った人種はその初期の段階からその記録を残している。中国にも漢時代すでに現存しないが本草需があったらしいし、南米のアステカの本草書もスペインを通じて残されているそうである。000年頃のエジプトの神殿の川聞白木にもまだ文字を知らなかった時代から薬用植物の知識は口伝えによって蓄わえられていたと忠われるが記れ附されたものとしての本草学は奈良時代に中国から「神農本草経集注」という書物が渡来してからのことである。中間で薬効ありとされる植物と閉じものを日本で間違いなく見つけることは大変むずかしいものである。乙の困難な作業は江戸時代の初期に主ってようやく多くの誤りが正され本草学が植物学という一段階上のものに進みつつあった。本草学者として著名な員原益軒の活躍したのは十七世紀である。日本の本草学もただ伝承を無批判に踏押するだけのものではなくなり自然観察を主にして実証的なものになりつつあった。面白いζとにいけ花の方でも自然観察の大切さを出比という言葉が盛んに刷いられはじめている。初代富春軒の立花時勢粧にも「出生の景気」という一条が見える。当時最新の植物学的な知識を身につけた上でのいけ花理論といえるであろう。三木会の五月例会は人間と植物のかかわりあいの大きな一面である薬用植物が江戸時代に一カ所に集められた薬草闘を実際にこの目で見て、植物学の一端にふれる乙とにあった。写真は森野菜草悶で私が講義している所であるが幸い好天に恵まれ有意義な一日であった。,It ,{,号11

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