テキスト1985
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しゅん白花菖蒲宿根アイスの葉花器濃紺水盤江戸時代は花の季節もすべて旧暦で言いあらわされていたので、月々旬の花を楽しんでいたが、新暦に変ってからは旧暦の五月の行事を新併の五月に行うと一と月早いととになる。人間の方は何とかその気分になれでも花の方はそれにあわせてくれる訳ではない。お蔭で無理して行事にあわせた早咲き祁の花を我慢して生けなければならないが面白くない話である。毎年五月になるとその不満がつのりはじめる。現在五月五日を目指して北培される花菖蒲は早咲種のつまらない紫と白の二種だけである。端午の節句が終ってから本当の良い花菖蒲が咲きはじめる。何度もテキストに書いているので又かとお思いになるだろうが御勘弁願いたい。だが早生極の花菖蒲も白花の方は無難に美しくとりあわせる乙とができる。西洋山査子を低く横にはわせていけ、その後に大量に宿根アイリスの葉を挿してみた。乙の場合白花菖蒲が無理のない配色であり花型であろう。ただ西洋山査子の後の宿根アイリスの葉は左の方をすとしへ、りした方がよかったと考えられる。ζれから暑さに向かう季節には、蒲、太閣のような細長い緑の花材を多く使う乙とになるが、適量をよく考えて涼感を求めるよう注意したたような気分になる。好きな音楽に関する知識は自分で平生から積み上げておくべきものである。その上で聴く時にはすべてを忘れて聴き入って乙そ来しいのである。ζんな乙とを書いたのは、私の仕事は流儀の伝統をただ解説するだけのものであってはならないと気付いたからである。幸い私は花をいけるととに無上の喜びを感じている。その年はじめて手にする杜若に今年乙そはと気持をあらため、遠い外国から送られて来た珍しい花に心を奪われる。そしてその花がどういう姿に咲きたがっているのか感じとろうとする。そして何とかいけあがったときのほっとした気持。それを皆さんと分かちあえるような場を作る乙とが私の仕事でなくてはならない。又古典的ないけ花のある一つの型のもつ深い意味を掠りあてたときそれを我々のものとして書きとどめておかなくてはならない。実際長い間与えられた担を忠実にいけ続けていても中々その意味はわからないものである。たとえその一部分であるにしても自分向身のものとなった時の感激は大きい。いけ方を教えるだけでは伝書の切売りだと言って差支えない。皆さんと喜びをわかちあえるよう私が勉強する乙とが目下一番大切な乙とであると思っている。リ査ざ子し5 山i

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