テキスト1985
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濃紅色パラカラジュウム宿根アイリスの葉花器グリーン深鉢乙のいけ花には五本の濃紅色のパラをほとんど垂直に立てている。そのために刊の広い花器に大きな剣山を使ってパラの足もとの間隔を充分あけて挿している。そしてパラの下半分の葉を全部とってカラジュlムの葉六枚がゆっくりおさまるような空間を作った。風をさそうような宿根アイリスの葉と、白さが涼感を招くカラジュームに対してパラの葉の濃い緑を上から下まで街集させると周開の空気が澱んでしまったような感じをあたえる。アイリスの葉の緑、花器の色は若草色、パラの葉の濃緑に対して、パラの花だけが濃紅色である。カラジュlムは葉の主脈にそった部分だけが赤く、あとはほとんど白いものをえらんで上下の配色のつりあいをとっている。いけ花にはその花は使わず葉だけを他の花にとりあわせることがある。その多くは花季を過ぎたもの、或いは花は美しくなくても葉が美しいものが使われている。杜若や花菖蒲の葉もそのような使い方をするが、作例の宿根アイリスの葉はあやめ科の植物の中で最も優美で力強い。葉面はなめらかで長さも印センチ以上あるので工夫次第で相当な大作にも使えそうである。自分の周四の良い花材はすべてよく記憶しておき必要に応じて使い乙なすようにしたいものである。FM放送はよく聞いている。物を書私はテレビを見ることは少ないがきながら聞くので歌詞が入ると、脳の構造上気が散るので音を小さくするか消してしまう。一番嫌なのは聞きたい音楽番組に解説者が出てきてその作曲家の生涯や作曲されたいきさつ等を長々と話すことである。一曲終るごとに口をはさみ番組が終る時にはその音楽の感じとり万まで指導しようとする。時には一時間のうち二十分ほどが解説に費されていることがある。そんな乙とまで聴衆は求めているのであろうか。もしそうだとすればその人に必要なのは題名とその曲に対する知識だけで、音楽そのものを求めているのではないといえそうである。自分の心より他人の解説が大切であろう筈はない。それぐらいならまだ作曲者の意図に反した受けとり方をしていてもいいから自分の耳に感じた乙とを大切に持ち続けている方が私には良別に解説者、或いはその番組を企画した人は悪意をもってやったことではないのだろうが結果は例えば人に塩水を飲ませておいて「どうです塩辛いでしょう。それは塩が入っているからですよ」と言ってるみたいなものである。何となく馬鹿にされ聴きながら4

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