テキスト1985
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どうだんつつじ(副流し)花器煤竹芸展が毎年聞かれている。花器を探すため必ず見に行くのだがきものにも目が行く。並べられたきものはどれを見ても何となく陰気央い。技巧の上では非常にすぐれたものだということは充分承知しているが良く言っても渋さだけしか感じられない。並行物のきものらしさの中には少し位華やかさもあっていい筈である。私の求めているのは豪華な素材や絢嫡な色彩ではない。生き生きした潤いのある魅々がほしいのである。それを初代仙渓はつや(艶)はずみ(伴み)という言葉で私述に説明してくれている。大切な言葉である。部分的な技巧の術語のように解釈することもできるが、一瓶のいけ花全体にそれが求められているのである。」LH典的ないけ花では初心者は型や技巧を押得するのに精一杯だが或程度以上進むと技巧をつくす而白さに心を奪われたり、引にはまりこんで二進も三進もいかなくなる乙とがある。そのような花ばかりがいけ花展の会場に並ぶと何とも陰気なものである。それは標木のようなもので部分的には大いに参考になるが生きたいけ花ではない。完全な形、技巧につやとはずみが加わる境地まで行きつければこの上ない乙とであるが、そ乙まで行きつけなくても生花や立花にもいけ花ならではのうるおいとゆとりを失ってはならない。作例のような地味な生花でも私はいつもそれを心がけていけるようにしている。者物が一部門として山品されている工乙れは立花や生花で忘れてはならないκっちきっち満天星川Hえ同古7

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