テキスト1985
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真直にのびた太閣をいけるのは気分のよいものである。その太蘭を折って使うのを面白がっている人があるが、わざとらしく浅はかな考えである。乙の作例では珍しく一本だけ折れたのを使っているが、乙れはわ太蘭ざわざ折ったのではなく、はじめから折れていたのである。勿体ないからそれを左側との釣合のために形よくおさめただけの乙とに過ぎない。ブル飾り用に花だけを短く切って出荷されたものらしく、合日もちもよく、切りとられてから今日で十日自になるだろうが大して乙のグロリオlサはおそらくテー葉や軸はついていない。表紙にも使っているが割変色もしていない。小品花に向いた花材である。強い色彩のグロリオlサを小品にまとめる場合とりあわせる花材は明るい色、或いは軽やかなものを一種だけでいい。そして全体がぴったりまとまるような花器をえらびたい。花材リ太蘭グロリオlサ花器H青色ガラス花瓶「昭和一ケタいい話」(KBS京都八回出演)という放送にでたお蔭で私の年代層についていろいろ考えてみる機会ができた。放送では呑気な乙とばかり言っていたが思い返してみると苦い経験、暗い記憶の数多くをかかえている。もし私達の年代層が他の年代層と変っているとしたらどういう点なのだろうか。昭和も今年でもう六十年になる。一人の王の在位年数としては異例に属するほど長い。その初年期に私達一ケタ族が生まれ、昭和三十年前後には子供ができ、孫をもった人も多い。だから一口に昭和生まれといっても三世代がいる訳である。そして昭和二年生まれの私は再来年還暦を迎える。まず大正時代(昭和元年は大正十五年の十二月二十五日から一週間しかなかったので大正にくりいれていいだろう)に生まれた人とのはっきりした違いは徴兵検査をうけずにすんだ乙と。私達が小学校に入学した年から教科書が全面的に改訂された乙とがあげられる。現在の小学校のように何種類もの教科書があった訳ではなく、国定教科書一たのが変るというのは与えられる影響は非常に大きなものである。私達自身一つ年上の大正生まれの人と違明治・大正・昭和つだけだっうのだという観念は小学校入学時から動かし難いものになっている。国語の教科書の一年生の第一頁は大正時代は「はなはとまめ」。私達は「サイタサイタサクラガサイタ」。平仮名から片仮名に変っている。明治生まれの人達とはもっと大きなへだたりがある。一番はっきりしているのは邦楽がさっぱりわからないというととだろう。自分で勉強しない限り、謡の文句はわからないし長唄と清元の違いさえつかない。私達の受けた教育の成果といえばそんなことなのである。一時戦後派(アプレゲール)、戦中派という区別のっけ方が流行した時期があった。私達は戦後派、大正人聞が戦中派である。戦中派の兄貴分達は私達に「お前達は兵隊に行かなかったんだから」と何かにつけて区別したがったが考えてみれば戦中派の男は明治人間に戦争にかり出され戦後は仕事にうちとむよりほか考えるととのなかった苦労人達である。明治人は今でこそ頼り甲斐のある貴重な年代層のように思われているが第二次大戦へと大した歯止めもかけられず、ずるずると押し流され敗戦にで然自失していただけである。成年を迎える直前の敗戦、忠君愛国から突如民主主義に変った時の虚無感。私達昭和一ケタは家庭に拠り所を求めたようである。批判はあるだろうが私にはそう感じられる。4

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