テキスト1985
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かずのり和則の生花花器青銅花瓶和則に牛花の手ほどきをはじめてから一年間はきっちりしたいけ方を続け、大体基礎的な乙とが’封についてからは特殊な花材を折にふれていけさせている。乙の椿は私が,京の冬の旅。の投入れの大作に一度使ったものをひきあげてきていけたものである。花そのものは良い品種なのだが葉が霜で焼けている上に下向きが多くいけにくそうな大枝である。校ぷりの特徴と枝取りの助言を少ししただけで、一時間半でいけ上げるよう言いつけ、私は横で書きものをしていたが、その時間内で乙の椿の生花はでき上がった。写真にとってから各部の寸法を計ってみたが殆ど狂いなく巨確に科技がふり山されている。現在和則に大切なのは乙の正確さであって、これが身についていないと少し変った趣のある校を手にした時、その枝ぶりに心を奪われ、それを生かしたつもりが程度の低い自己満足に陥ってしまう乙とになる。生花の正確なバランス感覚が心にきざみつけられていれば変った校ぶりを変則的に使っても、狂いのない花がいけられるのである。枝が生きたとはそういう乙とだといえる。生花をいけるK当ってもう一つ大切なことは自分自身の主張より植物の自然が優先されるということである。思い思いの姿に勝手に成長した植物を、生花の形におさまってもらうためには自分の個性は当分棚上げしておく方がよい。私達が自然と共に生き、様々な経験を重ね、教益を積み、人生について何程かのことを語れるようになるのは還暦を過ぎてからのことであろう。ようやくその年頃になって花のζとも少しは分かるようになり、花と共に生きる自分を自覚できるようになってはじめて己を花の姿に托す乙ともできるようになる。和則のふみ出した花道も思えば行きつく先も定かではない長い旅路といえそうである。椿8 理麗甥田園田・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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