テキスト1985
136/144

トレ】1AJ4Jnlιふ恥!榛国4花器はしばみ榛が花材として川いられるのは初冬に枯葉と忍年のいねに咲く厄状の問い房になった泣をつけた時季だけで氷仙、{建計丹、椿等ととりあわせた小品花には静かな季節感があり茶附の花として好んで使われている。地味な色で単調な校ぶりなのでおとなしい感じにいけられる乙とが多いのだが、逆に派手な濃い亦のパ一フや作例のようにグロリオlサととりあわせてみると、その渋さが強い花の色をひきたてる働きをする。えその枯葉の合茶色も浪亦色とはうつりのよいものである。作例ではグロリオlサ五本をハの小さい花瓶に挿し榛三木を加えただけの簡単ないけ花だが料色の花然とのうつりもよく憾の使い方としては明るく派手な感じである。神のLA科に属する僚はけ本中に広く分布しており、その克は食用として親しまれ、地ーによって多くの万胃名がつけられている。同一周に角棟(つのはしばみ)といって実の先が品川のようにとがったものもある。ヨーロッパの地中海沿岸では食用として瓜実の大きい品和が北培されており、へlゼルナットとして市販されている。グロリオlサ榛(はしばみ)百竹色細川花版泰平の逸民というテlマを掲げて色々な乙とを考えていると今の日木は全く気楽で住みよい国のように見えてくる。働き円には事欠かないしその労働も過労で命を納めるほどきつくはない。適ーに働き適w」に遊ぶということで大して疑問を抱く乙ともなく生きて行ける。このような世相に同調し、その流れの中で気楽にすどしているといつの間にか私達の五官(視覚、聴覚、唄覚、味覚、触覚)もそれに乗せられて正常な働きを失ってしまうのではないだろうか。五日の働きが衰えると流行という故に快く身をまかせていられるのではないだろうか。その自信のなさの集同化したものに適汁な方向性をあたえるのが流行の正体であろう。問分自身の感覚が働かなくなれば当然他人の意見に頼らざるを得ないだろう。それが権威化されたものがブランド州品である。此頃多少その権威がうすれたようにも聞いているが、まだまだ大きな力をもっている。そのうちの何割かは確かに良い商品だろうが、それらも綿e何に仕立てあげられたイメージが価格の大半を占めているらしい。イメージを買うことがまるきり馬鹿げたことだとは一一一円わないが、夢は自分で見るものである。他人の作り上げたイメージばか泰平の逸民りに頼っているうちに私述はしまいに市話に山てくる「仰の五様」になって行くような気がする。私の品一Uっし本来そうあるべき筈の、「泰平の逸民」は「似の五様」にはならない。巾川の廿の士人達は高い理組を持ちながら、それを実射する場に居あわせられない時にも逸民として市に’円分を美しく磨き上げようとしていた。そのような上人・文人であればζそ凶暇な境辿にありながらも時流に流されずその人としての一生丸公つできたのである。一一一川いかえてみればしっかり向分の目で物を見る自由人なのである。ところで彼等文人述は向分の五日を非常に大切にしていたし愛してもいたようである。その証拠として詩文に秀で、絵削をよくし、音楽を解し、で門にも神経を行きとどかせた。中同料川の見味は彼等の味覚の育てあげたものである。私には彼等は頭脳よりも向分自身の一九{いに信頼をおいていたようにすら思える。実際人川の頭に入っているもののうち大半は他人の知識である。だが五円に他人の感覚は人り乙まない。自分自身感知した乙とが心花伝わるだけである。「袋一平の逸川氏」という一一門葉にどこか切るい向由さを感じるとしたら夫的感覚を尊屯した文人述の暮らしに対する附憶がひそんでいるように思われる。(次号に)4

元のページ  ../index.html#136

このブックを見る