テキスト1985
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ひでりほとと古来文学や見術で親しんできた杜若という花のイメージは私達の心の中にあまりにも深く大きくきざみつけられているせいか、その優雅な向然の姿から切り離して美しさを求めるのが難しい。生一花では社若のいけ方は出生に従って葉を組み、季節によって花の高さ、実の一両さや挿す位前も定めて’H然の姿を正確に写しとろうとする。秋の杜なれて業組をせず、りあって生えた葉をそのまま任恵に挿しはするが、秋にはとりあわせる花材は和風なものをえらび季節の風情をそζなわないようにしている。か支がよくしまって幅もせまいように感じる。だがそんな悲条件の中で育ったので水揚げがよく十円たった今も葉はしゃんとしている。持花や投入れでは生花の制約をはのまま重な今年の秋の社若は夏の早天のせい秋の社右のとりあわせには水辺の2H然花材として枯葦や枯蓮に岸辺の野菊や秋草がよく使われ、それは晩秋の野の風を恕わせる。作例は手入れの行きとどいた庭の小さな池の一隅を感じさせるようないけ方である。私の家の庭にもそろそろ社鵠草が咲きはじめ山茶花の蓄の先が赤らみかけてきた。そのような感じを写した静かな一作である。花村杜若(かきっぱた)社鵠草(ほととぎす)花器天目軸水盤ゼすさざんか5る〆若9

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