テキスト1985
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かたがき私が泰平の逸民として最も尊敬しているのは尾形光琳である。彼の伝記の類は数々出版されているが、そのどくあらましの人物像は筆者の主観のまじらない人名事典を見た方がよいだろう。手もとの事典には、おがたこうりん尾形光琳五八t一七二ハ(万治元t享保元)江戸中期の画家。幼名を惟宮、のちに方祝、市之丞、光琳にあらためた。長江軒青々、伊亮、寂明、道崇、澗声の号がある。京都の呉服商雁かりが金ね屋尾形宗謙の次男に生まれる。父の多趣味な生活に感化さ泰平の逸民二ハれ、能や絵の素養をつんで成長。享楽的生活と事業の失敗により破産、法ほっ橋きょうの格式をねた元禄一四年(一七O一)、四O才どろから木格的な画家生活にはいる。その後も銀座役人中村内政助や豪・間違と親交をむすび、江戸に山てからも材木商冬木家や大名の津軽家、柄井家の庇設を・つけるなど江戸中朋の富裕な町人や上層の支持を・つけた。絵は初め狩野、土佐の画風をまなび、のち宗達風、漢画風をまなび、大和絵の色相の整理と純化をすすめて、晩期の紅白梅図扉風にみる独. 自の華麗で律動的な装飾f白紫ぁ釣!主豆なに青う上やがりび普王Z褐花り•]<[,r',よ切j時花きな情れしの; 三O才のとき多額の遺産を得たが的様式を完成させた。代表作燕子花図扉風、紅白梅図扉風など。創作活動は弟尾形乾山の陶磁器の絵付けや、光悦風の蒔絵などにもすぐれた意匠をの乙し、そのほか染色の模様など多方面にわたった。と記載されている。この簡単な略歴の紹介からうかがえる光琳の人柄はものまず裕福な家庭に育ったおかげで物必怖じしない明るい性格であっただろうこと。教養豊かな父に知識人として育てられ同時に繊細な美的感覚を身につけたに違いない。私が光琳について何よりも興味をもつのは破産が彼にどんな影響をあたえたかという乙とである。大抵の人なら失意のどん底に沈み、以前の交際を断ち切ってどこかへ移り住むととろだろうが交友関係は失っていないようである。多分破産という山米事を大らかな表情でのみζんでしまったのだろう。光琳のくわしい伝記を読まず、事典の手短かな記事を勝手にいいように解釈しているのだが私にはそう思える。商人としては大した人ではない上に富裕な家産を失なったという常識的に考えれば凡庸人でもある。だが幼時から身についた豊かな教養と繊細で洗練された人間関係への心遣いはその交際範囲の人々にとって責主で大切なものであったろうし、又彼もそれを自分では意識しなくても感じていたに違いない。その後画家としてのびのびと暮らして行くのだが生真面目な人から見ればとんでもない道楽者である。その辺を指して私は光琳を恭平の逸民というのである。ところで私は光琳の破産を礼讃しているのではない。破産は木人の不徳の致すところで世間K対しても申訳のないことだが、破産という乙とを一般的な視点から角度を変えて考えてみると何の保証も肩書もなくなった棋の人間となることであるともι:川える。それを引代の生活と結びつけて考えてみようという訳だが私達の一生の間には昔とくらべて及びもつかないくらい余暇がふえている。週休二日制も行き渡ったし祭日も多くなった。平均年令がのびたために停年後にも長い年月が残されている。家事労働の機械化で主婦自身の白山になる時間も長くなった。すべて余暇と見る乙とができる。乙の仕事をはなれた余暇の間はすべての人が極端な言い方に間乙えるかもしれないが対等になってしまう。例えば社長と課長がゴルフに行ったとしてもスコアと社会的地位は全く無関係である。ただうまければ勝ち、下手が、白けるだけのことでそ乙では無慈悲なくらい人間は棋にされてしまう。余暇がふえるということはそのような時間が私達におおさまじめいかぶさってくるのであって呑気に存んでばかりもいられない。問題はその時間をどう受けとめるかという乙とになる。光琳は、破産後の常人なら恐しいほどの余暇を見事に使いこなして行ったが私達は一体どうすれば良いのだろう。戦後私達の生活は少しずつ豊かになり、一日の労働で得ることのできる物の量は飛躍的に多くなった。とはいうもののその収入を維持するためには細心の注意と持続的な努力が必要である。その上で余暇を持った時、ただの一個人として過ごす川も心豊かに比きることのできるように仕事以外の生き甲斐を見付けておかなくてはならない。乙れから先の時代では仕事をはなれた時、その人が何を身につけているかという乙とが大きく幸、不幸を左右する。円本より早く余暇が増大した欧米の場令、ただずるずると年月の過ぎ去るのに身をまかせていた女性にはアルコールに溺れる乙とが多いという。日本の猛烈社員世代も停年を迎えようとする今、非常な不安を感じているという。早く隠居して好きなことに打ちこめるのが理想であった時代はそれほど昔の乙とではなかった筈である。「小人閑居して不善をなす」とはいうが、ても美しく生きるのが良い意味の「泰平の逸民」である。次回それといけ花の関係を汗いてみたい。川附回附しa・・・・・・・・E層盟国置理量総司磁悉巡静獄・、.、..,__‘JL...!11111111、h・a・・・・~.~ :花器地|場:j菌;和Iiいはい。向か風とつ通: くあのょに柿少だ令花すわはうはのなも、豆材ませ実に実ついの実判jせるの使をや方ょがを−−色のイ1Dt信hうる期材に丸がぐり大μー帯;葉(棋のにいでと、みあらとき↑巾リ布nrし花あし帯2をるい行さー花瓶コ)たをるてが見。ば儀にリい丹jが手下せそらよい。い、ににるしつくけス) 色と入なたてい並るをりるるめ豆てん場"−'=毛..' 望I ・−−..・・.., 3 ’F ω 園圃臨-~ti.},is,.・・・.・(\\'/t冬繍総額盟国圃.{

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