テキスト1984
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じようみょうはしげたかみしもくさびはちまんやまやまぷしやますずかやまかんめんやま梅雨が明けたか、明けないか。空模様の乙とが七月に入ると、祇園祭のや山ま町ちょ、う鉾ほE町の人々は気にしはじめる。山鉾の巡行花、持を着てお供の最中雨にあうのはたまったものではない。それにK俄わや雨で、宵山飾りを急いで片付けなければならない乙とも度々ある。でも町内全員なぜか楽しいようで、口ではブツブツ言いながらも、各自受持った役割を笑顔ではたしている。私の町内の浄妙山も古い山で、治承四年(一一八O年)宇治川の合戦に、一ニ井寺の僧兵郎知浄妙が橋桁を渡り一番乗りしようとするとき、後から一来法師がその頭上を「悪し?っ候、御免あれ」といってとび乙え、先陣をとってしまった。人形は一来法師が浄妙の頭の上に手をついてとび乙える瞬間を・つつしたものである。一来法師の手の先が棋になっており、浄妙の頭の真中にさし乙んでとめている。町内では、一来法師の乙とを上様、浄妙坊のζとを下様といっている。それぞれのよ鎧ろい装束を着せる役もきまっており、私は下様の着付係である。飾付の道具も時代を経たものばかりで、浄妙坊の着ている鎧は室町時代の作で重要文化財になっている。祇園祭で常々面白いと思っていることの一つは、宵山飾の人形が飾られると、八坂神社から神主さんが、人形に魂入れにこられる。神道に関係のある八幡山や山伏山、鈴鹿山は当然な乙ととしてよく分かるのだが、私の町内の浄妙坊は仏教徒であり、南・北の観音山も仏教の説話からとった人形が主体となっている。神いち古ほろしあ道の神主さんが仏教徒に魂をいれにくるというのはまことに変な話である。イスラム教の坊さんが、サンタクロースに魂をいれに行くようなιんものである。神仏どとろかキリスト教までも混清している日本ならではのととである。そういえば花道の瑚論付けも、時代によって仏教によりど乙ろを求めたり、儒教に従って君臣の道をあらわす枝を作ってみたりして、国家神道から西欧思想と移り変って行く。中国の民俗信仰は道教が主になっているように忠うが、例えば西遊記にはお釈迦様もでてくるが、根底は完全に道教的である。日本にも色々な宗教思想が入り乙みはしたが核になっているのは原初的な神道で、その時代の衣装を次々と着かえてきただけでコその木釘は変らず、それが日本思想を特色付けているのではないかという説がある。花道が、原始の時代、我国で稲作農業が始まった弥生時代にその原質を形成し時代を経て開花したものならば、神道と同じように衣裳替えをくり返しながら今日に至ったのだろう。速い過去はおくとして、戦争中は花道もおそらく皇国主義的な衣裳をつけていただろうが、戦後は簡単に西欧的な芸術思想に着替えている。祇園祭りも国家神道の象徴のように扱われていたものが、現代では町衆のバイタリティーの表現ともてはやされている。何が本質なのか神道も花道もよく分からなくなってしまうが、そんな乙とも少し勉強しなくてはと思いながら山花は祇園祭の当日を迎えた。今年の巡行は日ざしが強く、三時間以上お供している川にすっかり日焼けし、まだらな顔で乙の原稿を書いている。下の写真は、私達の「花ど乙ろ、味どころ」の料理中を京都新聞の方に撮っていただいた。祇園祭

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