テキスト1984
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ーなりもの|なあまり伎われなくなったが、生り物も由という言葉がある。田畑の収穫や、県物の乙とを指す。いつの頃からか、それらは画題となり、絵として観賞されるようになった。中国の疏菜関や果物の静物画の歴史も古いが、洋固にもその例は多い。洋画で面白いと思うのは、食用の雄子や兎が野菜や民物の桃に附かれていることであるυ円本画でよく見かける篭に盛られた鮎や鯛にあたる絵なのだろうが、いかにも死んだという動物の描かれ方と、生き生きした魚の描かれ方には大きな相違が身あ近るによ自うににす思るう性οなり物ものは、そんな梢図をもとにして、盛もり一物ものという形式のいけ花になったのであろうかは神様へのお供えには、収稚した比物の中から一番立派なのがえらばれる。そとからその美しさを知るようになったととも考えておきたい。いけ花に疏菜や果物が多く使われるようになったのには盛物の影響が大きいと思うが、昔とくらべて格段に立派に、そして美しく、種類も豊富になったということであろう。例えばトマト。私の子供の頃、トマトといえば朱赤色で酸味と香りが強く、見た目にも傷が多く嫌いなものの一つだった。現在のような桃しんくつる色、或いは桃色がかった紅いトマトを見かけるようになったのは小学校高学年になってからである。戦後もっと改良され、美しさも見違えるようになった。食用に買ってきた果物は勿論の乙と、野菜でもそのまま気軽に飾っておける。生なり物ものだけでもいいが、いけ花の横にそえればもっと美しい。この作例では、淡緑色の葡萄に、グロリオlサの深紅を対照させ、茶色と灰色のまだらの伺萄菟で形をとり、褐色のチーク材のボウルで室内の色調とつながりをもたせている。いけ花の横にな生りも物のをそえる場合には、はじめからそれを考慮して、おさまりやすいよう作例のように葡萄真を左にのばしておく、といった工夫をしておく必要がある。生物を使ういけ花の楽しみは花を或いいけかえる必要なく、そえる材料を色々とりかえられる乙とである。朝、葡萄がそえられていたものが午後にはトマトに代り、夕食後ピーマンにしてみたりしても、色さえあえばちっともおかしくない。季節によって、或いは部屋の感じゃ使われ方にあわせて、ただ花をいけておくだけでなく時々生なり物ものをそえてみるような変化があってもいい。花材グロリオlサマスカット葡萄の太い草花器チーク材褐色ボウル花は一輪だけ、臓えん脂じ色の小さな鶏頭をそえてみた。主になっているのはアンスリュlムの葉四枚、吋煙むり草そうは奥行をとりながら形をやわらげ、鶏頭で緑を鮮明にさせている。私は葉の大きいアンスリュlムやアロカシア等を沢山使って形を構成し、少し色をそえる、という花をよくいけているが、やっていて中々面白いものである。閉じ種類の葉なら、三っか四つのきまったパターンにいけられそうなものだが、葉の大きさ、葉柄の長さ、色艶が毎回異なる上に、とりあわせの花によっても、或いは最初に手にした一枚の配置で前とは同じようにはならない。くりかえし飽きずにいけ続けている。乙のような広葉を主体忙した盛花や投入れをいけていると、葉蘭のように緑の葉一種だけでいけあげる生花の葉組物の技巧が、知らず知らずの聞にでてくるのであろうか。表紙のような葉の使い方は、形は生花と全く違うが、葉の聞のあけ方や、それぞれの向きのとりょうを、いけ終って自分で眺めていると、ではないかと思えてくる。その上私の生花には立花の奥行のとり方も入っているようだから、古典の影響というものは大きなものである。〈表紙の花〉多分そう生物d2

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