テキスト1984
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fνhy自分の生活圏の外に、一時出て見る:::というのが旅なのだろう。地球をとりまく太気圏を脱出し、無重力状態で、宇宙を悌一旅するのに似ている。ほっ:::と息がぬける。一緒に暮らしている上に、仕事も二人協同してやっている私達夫婦は、お互いのことが、一から九までわかってしまう。仕事が別々なら未知な面も少しはあって、日常の暮らしの中からでも思いがけない発見をする乙ともあるだろうが、知りすぎていると、息をつく問もない日が重なって行く。夫婦の旅について、新幹,料に備えつけてある雑誌の随筆K、乙んな乙とが書かれていた。::・すると、乗った汽車のなかで奇妙な現象が起るのに気がついたのはいつ頃の乙とだったろうか。東京駅を離れて車内のざわめきが一段落する頃から、夫婦の間で会話が始まるのだ。何を当り前のことを、というかもしれないが、実はそれが私達の問では新しい発見だったのである。というのは、日常生活があまりKもあわただしいので、夫婦の問で会話らしい会話のかわされていなかったととが、新幹線のなかでの話し合いで、二人ともはっと今更のように分かったからなのだ。.別々の仕事を持ち、多忙に暮らしづ令。だが一日中、面と向かい合って暮ておられる御夫婦が、二人だけで旅に出たとき、お互いの未知な面が埋めあわされる面白さが書かれていらしている私達は、仕事や家事から解放されて、克く、おだやかな気持になった時、何気ない言葉のやりとりや、仕h、キC種から相手に感じていた欠点が少し洗いながされ、その分だけ本来持っていた良さが大きく見えてくるυ或いは一から九まで知りあっていた残りの一がふくらんで、十のものが十一にも、十こにもなるような予感を生むのだろうか。気持のゆとりが楽しい未知の期待にうるおうのだといっても良い。未知の埋まる面白さより、未知のふくらむを門びが私達の旅の収穫らしい。と乙ろで、息抜きK旅に山るといっても、ト人抵美しい花や、立派な樹の見られる所を選んでしまう。魚屋が本族館に行くようなものであるυそれでは仕市けから離れて息抜きした乙とにはならないように忠われるかもしれないがそんな乙とはないυ美しい自然に出合った時は、お花の先生も、会社の社長も、薬屋も区別なく同じ気分に浸ひたれるのである。先日でかけた上高地では気持の波れが、隅々まで洗われるような新制中で暮らしてきた。日頃自にする乙とのない落葉らま松つ、だけ岳酔伸ん、ばし円ら柿ρば:・等の旅上両地位はρにまつなると低くまがりこんだ岳柿と林。下には深みや山まえ延んれ齢いそ革う、牡丹猫の目草、は蔓しり若どに、ろら羅しよ生うも門んか蔓ずら等々。それに梓川の澄んだ流れと川底の美しさ。有難いことにシーズンオフなので人が少ない。今回は上高地から乗鞍岳の頂上に行き、高山におりたが、高さによる植物相の変化が短時間のうちに見られたのがよかった。名古屋で中央線に乗りかえ、木曽路に入ると少し風景が変ってくるが、新島々から上高地に向かうと除々に高山帯の植物に針変はり・楓っえんがてじゅ咲行いくて。い途た中が、、大白山陣蓮林華がや見刷え、ると上高地に来た感じが深い。この高さでは白樺と岳樺がまじりあっているが、もう少し両くなると白樺が盗を消し、岳搾と針葉樹に変るυその様子は上高地から乗骸山頂へ向かうと目の前ではっきりわかる。二千メートル位までは岳伸や仙の針葉樹が混生している。二千四円メートル這松だけになり、二千五宵メートルになると岳樺もなくなり、一這松が三十センチから一メートル位の丙さで山肌一面にへばりついている。見事な変りようであるο自分の住んでいる所から一歩山てみると、日本にもこんな所があったのかと、毎回身にしみて感じるυわずかな日日を割けばよいだけの乙となのだが中々実行できないでいる。小旅行でも随分多くの乙とを感じとってこられるものであるυ旅の収穫は期待しなくていい。ただ豊かな気持を持って帰れればそれで充分だ。ひ正ちさ写真③つもりの白樺と岳棒の区別も、混生していると中々見分けがつかないのである。一目で分かる特徴はないかと一生懸命見つめているところ。真面目なむずかしい顔をしているところがおもしろいです。写真@素子は欲しい草花が、そ乙ら一大きなハンドバッグの中に何が入っているかは、御惣像下さ面Kあるようです。知っている11

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