テキスト1984
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板屋楓桔梗米こめ麟つつ毎朝路地に水を撒くけ暖かくなってくると私も撒く。頼みもしてないのにと、…一一糸子に笑われている。初には随分水を使う。路地が終れば庭木にも水をやらなければならない。沢山ある水溜めをいれかえ、内玄関にも撒く。拭掃除、洗濯と水道の栓はど乙も出っぱなしである。大変なのは家中あち乙ちにいけてある花の水のいれかえである。水をいれかえるだけではなく、水切りしていけ直すοお人が見えるまでKすませておかなければならないととなのである。人を迎えられるように家を整えておく。花をいけるという乙とは、そんな心を似すためにもあるのだろうか。その家の門円から奥まで、そして台所から庭の隅々までが、いけられた花と一体なのである。或いはいけ花は、一個の独立した作品というものではなく、その人の人柄というのか、人となりというのか、暮らし方の気持が花を手にした時、自お由ずと形になってあらわれたものといっていい。そう考えてみると、いけ花で最も大切なのは、自分の心の持ち方、その心を暮らしの中で生かすことだと言いたい。此頃御存じのように、京都新聞に「花ど乙ろ・味ごとろ」という料理記事を連載させてもらっているが、料理でも同じようにそんな心が大切である。料理にもいけ花にも人をもてなすという気持が大きく働いている。もてなすといえば来・梓のためと思われるかもしれないが、家庭内においても家族の聞にもてなしの心持というものが必要ではないだろうか。料理を作る奥さん方は勿論家族をもてなすという気持がなくてはならないし、その料理をいただく家族の皆も、もてなされていると感じるべきである。@水重切ーーー一一_.踊じ@ 6

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