テキスト1984
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やり。花菖蒲黄山制ので、私の家でも食卓の飾りにさしりかえ、二週間位もたせている。りするよう、垂直に立てる。前に傾けると、川木実の上の葉だけしか見えない上に、重心を失って倒れやす花器白色花瓶い。破は八本掃しているが、大切なておいて、とりあわせの花を時々とパイナップルは、その形がはっきのは右側の三本で、乙の三木と黄カラlで一必の形はととのえられる。乙の3本ににらみつけられて、花器の外に押し倒されそうな左側の…微が微笑をさそっているように思える。⑥イキシアは、五@六月凶咲く、あやめ科の花で、小さな花が、細い茎花沢山ついて、中々かわいい花である。花の色は、白、黄、ピンク等豊富で別名槍水仙ともいう。業の少ない花、あるいは勢いのないものには、それによく似た葉をそえるととがある。立花では古くから行なわれていて、水仙や、杜若一色の場〈門等では、積極的に、一瓶の葉組に変化をつけるために、著しゃ衰がの葉を用いたりする。とれを、仮り葉、或いは借り葉とよんでいる。イキシアの葉は細くて、林立させた花茎の間にそえても形がはっきりせず、細い線がやたらに多くなり、雑然としてくるωそ乙で、イキシアの葉を大型にしたような、花菖蒲の葉を代りに使ったりするが、同じあやめ科で、しかも直立市なので、代りに使ってもいけやすい。固く細い草に、少しうるおいに欠けた花をつけたイキシアには、とりあわせに、みずみずしい花、或いは大きな水盤で、広々とした水面を見せるようにいけたい。又その小さい花は、三本や五本ではさみしいので十本位まとめた方がいけやすくなるようである。。ごくありふれたとりあわせなのだが、色彩がさつばりしていて、清々しいいけ花である。淡紫色の花百浦を而立させ、充分一仙さを作っておいてから、透明感のある淡いレモン色の黄菊を低くのばしたので、風通しのよさそうな感じにいけ上がった。花菖蒲は、晩春から初夏にかけての、青空と、爽やかな風が感じられるようにいけたい。部屋の中で、花屋からとどけられたものだけをいけていると、伝書に書かれたいけ方ぐらいしか思い浮かばず、いつの間にか、よどんで、むし暑い水辺の花菖蒲のようになってしまう。良い伝古、良いいけ花の解説詐は、私達にとって大変有難く、有益なものであることは間違いないのだが、それに頼り過ぎると、伝書の中に青空や、爽やかな風があるように錯覚してしまう。名人といわれた人達の官官きの乙した乙とは、直感と、行き届いた向然観察の結実なのだから、その通りいけて悪い筈はない。だが書かれた通りいけられたからといってそれで終るものではない。大切なのは向分でも直接その自然に触れて、実感を得てくる乙とであるυそれをくりかえしている問K花に対する直感が自分にも育ってくるのではないかと思う。「花は足でいけろ」とはよく花道の金言として説かれるが、それは山へ行って、白分で草木をえらんで切ってくるという意味でもあるが、その問、空や風を感じてくる乙とが、もっと大切な乙とではないかと私は感じている。私達の手にする花の中には、その自然を実感しようのないものもあるが、少しでも手がかりを作って想像力を働かす乙とも可能である。古人の知悲。私達の実感と想像力。それらが夢を生み、生き生きとしたいけ花がいけられるのだろう。','.: 9

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