テキスト1984
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いけられた花を評して、「技巧に定りすぎている」、或いは「気分だけで技巧がついていっていない」とかよく言われることである。又どちらが大切かという乙とが論じられたりもする。或る程度技巧がマスターできれば、いける時の気持が大切なのは当然の乙とである。例えば生花の技巧が完全にマスターできれば桜と柳を同じ形にいけるととは可能であろう。だがそれでは桜は桜という気持が働いていない。反対に技巧が全くないのに桜をいけても、それはただそとに桜があるというだけで桜がいけられたとはニ一一守えない。いけ花を毛嫌いする自然愛好家の中には椿を裏向けにいけて満足している人があるが、それでは椿がかわいそうである。技巧と気持は本来分けて考えるべきではない筈のものである。くたびれて手がよく動かない時にはいくら気持だけあっても良い花はいけられないし、気持が落ち着かない日は技巧だけではどうにもならない。柳の芽が日毎にふくらんできている。のテキストが皆さんの手もとに届く頃にはもう小さな葉が山はじめているだろうο柳のやわらかに垂れ下がった曲線の中に、グロリオlサが包みこまれると、その強い赤がおとなしくおさまってみえる。枝垂れ柳を普通の稽古花程度の大きさKいけたい場今には中垂れ柳のよくしまったものを選ばないと、長すぎていけにくい。つい此の間まで一束の中K白、黄、クリ技巧と気持ζ8

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