テキスト1984
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旬ぐらじえんゾチ独リ立y何欄縦ひうお買です。京都日日新聞社写真班撮影の乙の写実は、只今となっては大変珍しいもので、その頃の巨綜の辿切りの風景を伝える貴重な写真でないかと思います。御川人達の服装によく目をとめて御覧下さい。只今とは随分違う感覚です。蓮池のまっただ中へ舟をのり入れて、好みのままの蓮を切って、やがて岸辺へ帰ります。乙の円は百五十名位の会員が集まって約三十隻の舟に乗って池へ山ました。この池も今は広十亡たる旧閑になっています。お二人のお示、起池の内田・己んのお話を綜〈けしてみるとやはり時代は昭和五、六年頃のことらしい。そして桑原専脳流以外の点も多数参加しておられたそうである。舟の後の庁で日傘をさしておられるのは、お二人より少し年長の女同さんとおっしゃる万で、昨の瞭造一パの奥さんで、父に判っておられたそうである。多分昭和十一年の師組名簿にのっている安田慶一品さんではないかと思う。写真をとってもらったのはお昼前頃で、乙のあと舟をおりて、昼食にはまむし(鰻井)がでたそうで、随分正確におぼえておられて大変話が而白い。花は昼食後にいけたらしい。その頃までは、湖のように大きい巨椋池には、辿見船というのがあって、お盆近くなると、白蓮、紅蓮、爪紅蓮が一面に咲き、息のつまるほどの壮観であったという。父も大正時代から亙になると必ず巨椋池に行っていたようで、調知会という京都の家元同志の夏の研修会内田文夫氏とゃ、流内の辿生け会の河川をよく聞かせてくれた。今井さんのお話によると「私達は川にのって辿切りを来しませて頂き最刈でございましたのに、家一克先止は汗だくで、すべて私達生徒のために泥によどれて講刊をして下さいました」そうであるが、市」時三十才位だった父の一生懸命な盗が自にうかんでくる。連を詠んだ多くの詩の中でとりわけ好きな一間は王維の次の五言絶句である。ろ鴎鵜堰復出−一清浦一関街レ的…古査上鵡鵜とは制の乙とで、題名は、水をせきとめて摘を飼っている所υ意味はまた清らかな水辺を飛んで行くοひとり立ったときは、何とふくよかに美しい乙とか。古びた一昨木の上で似をくわえている。この詩には池の本の清治さと、広乍向Y=紅一ア蓮一没々とした水面の静かさが歌いこめられている。昔の巨椋池に鵬はいなかったかもしれないが、おそらく乙んな情趣をもった池だったのだろうο古代には宇治川、トホ沖川、佐川の本が乙の湖に流れ乙み、水九が遊び、鮎の稚魚である氷魚が沢山とれたという。その美しい巨掠池が凱杭まで残されていたとしても、琵琶湖同様汚染が進んで見る影もなくなっているだろうが、必を組い、その花をいけようとするなら、そんな情景を心の中に仙きながらいけたいものである。中川川の誌では蓮の花は美女のイメージや、恋愛感情にζとよせて詠まれているが、円本でも万葉時代には同じような気持をもっていたらしい。それがいつの間にか極楽のシンボルとされるようになり、十述の花がいけられていると百−つ聞−つ盆まんであり、蓮の花が陥かれているとあの世を偲像するというようになってしまった。仏教の教児を説明するのに蓮の花を例にとるのは結構な乙とだとは思うが、あの世のシンボルにしてしまうのは、蓮の花が好きで、明早くから花の聞くのを見に行ったり、持ち帰っていけて来しむ私達にとっては全く不愉快な乙とだと以っているυ一度でも辿池の中に人り、その切るく、やわらかく、長恨ともいえる辿の花の聞いた時の芳芥に身を付]まれた乙とがあるなら、あの世のシンボルとされていることがどうも変だとおかしな乙とと感じる位円である。私は真夏の最も暑い掠りに、みずみずしく、大きく、ふくよかに咲く連の花を見ていると心身共に豊かι育った美しい女の人を感じてしまう。どんな気分の時でも、『蓮、よろずの草よりもすぐれてめでたし。妙法組事のたとひにも、花は仏にたてまつり、実は数珠につらぬき、念仏して往生極来の縁とすれば:::』というような気持は断じておきて乙ない。父も蓮を私と同じ気持で眺めていたであろうし、相父もそうだつたに違いない。日分が夫しいと叫うものには虚心で向いあいたいと思う。じ岨rムノρ紅あい蓮の方へもぐったかと思うと、11

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