テキスト1983
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しuお『ぜななじみたですつま〈きもみあぜふる占としみじみ蓮の葉と実校+吉街を出はずれると色んな秋草が自にとまる季節になった。あかまんま||ままどと遊びのお体飯幼馴染の花であるυ花もかわいいが、秋の深まりと共に、草今一体が美しい赤に照る草紅葉の一つでもあるυ植物図鑑には犬t拍参たでとなっているが、犬の字を冠したものは、似て』なるもの、劣るものの意味を表わす。あかまんまには少しかわいそうな命名である。一方本勢の方は柳勢とも号一円い、国の畦等師地に生育するが、葉に辛味と香りがあるので鮎の杭焼に孝餌として、或いは芹が刺身の回一〈になるけれども花としては倒立されていないν人々には栽培技術を駆使して育てられた花より、野山に自生している草花をいとおしむ心情がどこかにある。「野の行合はいかにして育っかを思えし:・・:ソロモンの栄華の極みのときだにも、その装い乙の花の一つに及ばざりき」伝」六章。いけ花においては言うまでもなく、野山の自然な草木の姿がその到恕とされている。野山の草花も、秋草民族といっても良い程の日本人にとっては、秋乙そがいけ花の季節と一一円えそうであるむ爽やかな秋の気配にさそわれて郊外へ散歩に出かける機会も多くなるあかまんま||聖書「マタイたζとに、ふと再会しめ々と語りあが、行く先々で忘れかけていたような草花に久々でお目にかかった時、それを覚えていた乙とに対する喜びは私達の円頃の公さを忘れさせ、引かな気持を回復させてくれるο秋草には何か心の故郷のようなものがひそんでいるようである。トねの花には待ち望んでいたものが咲いたといった感じがあり、知っているものがその通りになるという期待感が主になるが、秋草には忘れかけていうような凶想的な所があるυ春を創造期、秋を完熟期としてみると、秋草のいけ花は中々難しいもののようであるv人間一人完熟する乙との,勤しさにおいてそう考えられる。とはいうものの、秋草をいけるのに、一々そんなに難しく考える程のこともない》あかまんまに子供の頃の何紅かの惣い山があれば、二十才になってそれを手にした時、郷秋山もおぼえるだろうし、それがいけた花にも何かの形で表われるだろうυ三十才になった時、五十才にな時、七十才になった時とあかまんまのいけ花も変ってノ行く隼円であるοだが五十才の人が意味ありげにあかまんまでままごとをすれば脱怪であり幼稚凶児が枯淡な筆致で秋草図としてあかまんまを拙乙うとしたなら私は慌てて止めに入るに違いない。いけ花にも年に応じた積み重ねが大切なことであるυった犬夢白小菊花器黒水橋8

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