テキスト1983
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かおるω中間の山水画は眼前の風景の客がこめられているが、又儒教的な道徳観も加わっているu仏教、儒教、神道という三者の矛盾を感じるζとなく立花という一つの芸がなり立ったのは人間の眼前の綜倒的円然の向う側にある根源的円然の中へは何もかもが治けこめるものだと信じていたからであろうν根源的自然とは実は何でもないただの自然なのであ観的抗写よりも、その山水の’円然の気韻を求めている、いけ花に求められている自然はもっと川慌しい感じの自然でややとしい育い方だがもっと自然な自然という乙とができるしだがいくら自然の中に枇もりとんで暮らしてくることができたH本人であったとしても、その班恕的な姿を芸の上に表わすととは符劫な乙とではなかったし子供が花瓶に優しい気持で花を挿す所からはじまり、年に応じた新古を重ね、自然をわい、芸の上でも人生の上でも監かな経験を重ね、円熟の境地に主つてはじめてその妙が表われるものなのである。それは一人の芸道家の一生の成県であると共に、花道の長い歴史がその妙を開花させたのであるυ立花というものは一人の芸術家によって創作されたものではないν何世代にもわたって利い続けられた花がいつの間にかオ花という形になったのであるν西欧の芸術の阪地山入の中での芸術思想やその表現の変地も、り自然の併比でもある》自然を体りした人によってのみ命がみなぎり、妙をねた盗となりねるνけついで行かれ、時をい川てその命の一人の芸術家によって突然なしとげられたものというより時代の生み山したものであるといえるuだが西欧の場作は一つの主術忠惣が長い年月そのまま続けられているということは、人聞に相対する向然の巾に、人間が風化し州一没し去ってしまった乙とになるのであるそれは人川が’H然に負けてしまったζとになると考えたのであろうu前時代の小川a江であ立花という一つの’川然の表われは担となって後世にひきつがれて行自然の表徴であり、それは命手一得た型は立の出として代々うくomはフQU心を冷ませれば誰にでもそれは見おだやかな削きを見せてくれる。山伏してその人の作品として一回限りで終るものではなく、夜由工が沿みきった時にはじめて本当の美しさを見せてくれる足の瞬きのようなものであえるものなのであるが、私達にとってそれは大変難しい乙とである。星の向きには無限の何物か、美しいというよりは深いといった方が良いのか、私達が永遠に見続けても何と形存してよいのか分からぬが、とに刈魂を奪われるようなものがある》その以の向きを芸の上で表わしむたのはどく何かな名人、達人であっ長い年月の間に自然に山山米上がっりu乙のいわれをよくよく見て、初「の除きL心o川の内、草の花形と云ふは、た担というものは、ごくかい糸口な姿をしているυ花道のよでは相阿弥が、「ただ花瓶をよく見て、ζの花瓶には如い何かよ様うに立つべきゃらんと案じ、よくよくたくみすまして立つるな心を忘れず、新しき心をもたず、人の面の如く、十瓶あらば十瓶、行瓶あらば円瓶かわりて、確しかとあるべき所に目のあり、あるべき所に却のあり、あるべき所にけのあるようにして、さすがに面’円く、しおしおしくあるは新しく見えておもしろく候し物の下手は、始めてある安そ而hく広し到し似によって、目のらる所にけをつけ、訴のあフの所に目を付くる心によって、重ねて見、久しく見依えば、見憎め仕り候なり』心初心をもって花瓶ごとに似みて立つ可き也」と壬一円っているが名ニ一・1の一つであろう花瓶、枝ぶりに従って…一民間に尋常に抑して行き、わざと変化をつけるべきではないυ目の位回に鼻があるのは単に変っているというだけで良い花ではない》変らぬものの良さを求めているのである匂初代一日川いれ粁はそれを民に次の一一以来にして我々に残してくれている行の花形より指し出して心の除けやう定相なく、草木自然の形をそのままに、さのみ制−ょにかかわらず、或は白く或は斜に、訪、別A、H流が枝し、前川その外の大枝もかくの如く、長短〉吋そしu近代の人、この花形を指さんこさかひたvくuu薄uuvvあしらひ、副なうして副をもたせ、山ハつの枝あるかと思へばなく、なきかと思えば忽然とあって、一一枚もかくることなく、山小に北そ川むかはずっと、法度をもれず、花形円山にしてしかも景気あり、はずみ有り、艶あり色あるを草の花といふ。乙れ格を離れて格に合ひ、習を捨てて習にかなふ手練なりされば占代の各師工夫をなし、心をくだきて引制の妙手より指し出したる形にして立花の什髄とれなるべとを胤へども従来の手駒はなれがたく又は七つの法式に臼糾せられて、いつも同じ花形のみにて過ぎ行く乙と、たとへばμ引を以って瓶を知るに、山山米.X小山山米あるといへど、瓶の形はかはるいれなきが如し名人の花といふは十度二十度指すといへど珍らしき一手あらすといふ乙となしνされば冥行の花は指し似るとも、げ十の花形にぶいいりては指す人まれなり》師をたずね域に得らずんば、乙の妙を得がたかるべし》」吏に栴古を重ね北程度修練を積んだ凶からは理論も勉強すべきであると説実技と理論は車の両輪のようなもので、二つが一致し山してはじめて花に日山をねられるものだと書かれている私達も花をいけ続けると共に、日本の芸とはどういうものなのであるかを学びたいしさの頭鶏花器ヨとイナ深鉢一両下の定法を離れ、請なうして請を5

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