テキスト1982
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際立った特徴のある花というものは、とりあわせや花器をいける度にすっかり変えないと毎凶同じようなギガンチュlムいけ花になってしまう。このギガンチュlムにしても、うっかりすると以前にいけたのと同じ配列に形作っていることに気付いて何とかやり直そうとするが、とりあわせや花器が似ていると中々形が変えられず結果として同じ花を二度いけたような気がして不満が残るο乙の花ではゼラニュームの白い斑入の葉と新西閲(ニュlサイラン)に茶色の臼のような形の花器を選んでいるので’円然に花形も変ってくる。表紙のギガンチュlムのいけ花は色彩を主にして考えているが、乙乙では形に重きをおいてひかえ固な配色になっている。ギガンチュlムは二本に高低をつけて直立させて下の方に花や葉をつけるのが最もいけやすい形なのだが、ここでは一本だけ直立させ、もう一本を斜左向に立ててから、ゼラニウムと新西蘭をそえてみた。新西聞|ニュージーランドーの国名から出たもので新西閲麻ともいう)(ニュlサイランの名はものである。いかにすぐれた花道家でも向分のいけ花を完全なものと思って一生を終った人はいない笠円である。すぐれた花道家であればある程自分の不完全さも悟っていたに違いない。その自分のいけ花が典型とされ、その花論が金科玉条とされたなら思わず墓の下で赤面するのではないかと感じられる。伝統は人間が人間としてうけついで行くものでありそ乙に尊い仙他があるのである。伝統もしくは伝取を通じて自然という神に近付ζうとするのは良いが伝統や伝承を神格化してしまうのはよくない。すぐれた伝書というものは、その人が自然という神に近付乙うとした時の道程の記録であり神そのものではないという乙とを知っておいてほしい。伝書に書かれている所まで行きつくととは大変むつかしい乙とではあるが更にそのよに何かつけ加えられるような努力を古人は求めているのではないかと私は思っているu伝統の保守的な耐を強制するあまり、伝統の絶対化が行われるのは大きな誤りであろう行き過ぎたように思える引有の社会の泣かや発展に対して伝統の意味が問い目されているが、それが観念的なものである限りでは反動以外に川の具体的な意味は持たない。いけ花が人間の社会に生き続けようとする限りその例外ではあり得ない。Uギガンチュームゼラニウム新,,可i泊(ニューサイラン〉花器r1形(茶色)3

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