テキスト1982
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花茎のんびりした花瓶で少し左に傾いている。林平八郎氏の花器は家にもれ山あるが、いずれも寛いだ柔軟なザアンドロビュiム感党が花をいける側にも伝わってくるような陶器である。デンドロビュlムとの色映りがいい。右隅にデンドロビュlムを竹串で押しつけ、その茎の後に板屋楓の枝をそわせた。白地に赤い木の葉の模様があっていけよった写真で御覧になると、乙れ以外のとりあわせは想像しにくいと思うが、例えば板屋楓をとのままにして、花を向日葵にかえるζともできるし、デンドロビュlムを残して、カラジュ|ムの葉をとりあわせてもいい。との程度の花なら次から次へと思いつくものである。手近にある花を花瓶にきしてから後のとりあわせを考えれば良い。立花や生花というものは、花遣を志した人述が何世代もかけて、一人一人の得た知見を次々と砧み電ね、そして何度も試行錯誤を繰り返し乍ら一つの典型を作り上げようとした事柄の記録がその流儀の伝書となって成され、次の世代がそれを基にして何かをつけ加えられるような努βをしてみる事に意味があるυ古人の言葉を聞いて簡単に「けの人は偉かった」と言ってしまう人もいるが、昔の或る一人の人が単独で偉かったのではなく、その背後にあったその人一人のものではない大量の蓄積がその言葉を作ったのである。そのようK何附代もかけて少しずつ改良されて現在に主っている伝承の中にも多少の誤りや矛盾もまじっており、未だに完成されたものでない所がありそれは古人も承知しているζとである。だからζそ、その矛店を止し、自分の創意が少しでもつけ加えられて乙そ伝統は生き古典の意義も存続するのである。もし古人の編み出した規格を完全無欠なものとし、それ以外の正しいものはないとして花をいけているならそれは異常な乙とであり、古典の標本を作っているような私の伝統観デンドロビューム板)主i風花器l斗地赤木ノ接税様入り花瓶2

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