テキスト1982
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塗(朱栴員生花というものは言いかえてみれば自分自身を矯めて「型」忙なじませる乙とだと思っても良いだろう。習いはじめの頃なら、極端に言えば梅と桜の区別がつかなくてもいい。「型」を迎して自分のいけている花を見る稽古を重ねて行く問にその花が少しずつ分かるようになり、自分の理想としている姿に気がつくようになってくる。下手な間に自分の手にした枝の自然を表現してみようと思ったりするのは無駄なことである。それよりも大切な乙とは留なら留の枝が正確な高さから正しい方向に出なくてはいけないa自分の段階に応じた花がいけられればそれは大変良い乙となのである。その段階に応じた自分なりの姿を大事にする乙とを知っていてほしい。何年か生花を続け「明」にそう乙とを格古している問に「引」だけが興味の中心になり桜を柳と同じ姿にいけ上げて満足してしまう人も屑る。文反対にその日手にした枝の面白さだけに目をうばわれて、どれが副なのか胴なのか分からない上に水際さえも不揃いな花をいけてもらっても凶る。最初は向然な姿を無視するぐらい「型」にはまることを稽古し、その過程に応じて少しずつ花の白然をとり乙んで行く乙とを覚え、最後に両方がとけあって一体となるととを牛‘花の理想としたい。同:(あけぼの)5

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