テキスト1982
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uUるωお蔭で紅葉を見に行く機会を失どれほど忙しい毎日であろうとも私の仕事では季節を忘れる乙とはない。季節も忘れて会社の経常に専念している友人達の乙とを考えれば、私の境辿はまことに幸せであると思わなくてはならないその私の小さな不満といえば、十一月に入ってから雨の多いことであっている。少し似のできた日に限って雨になるο新械に優しく降る小雨は好いものだが、秋雨に取った紅葉には他しさがただようu天気が覚束ないので遠出はやめて高雄から清滝まで久しぶりに歩いてみたが、散歩には頃合いの道程である。紅葉の色加減も一容美しい円に行き当ったようで、梢の葉も散っておらず、明るい紅をのんびりと眺めてきたu気候の移り変りのゆるやかな京都周辺の野山の秋は長いυ様々な草木が、す乙しずつ姿を変えながら、ゆっくり冬に向かって歩を運んでゆく。良い舞台を見るのに似て、感動は見終ってから充実感として残る。八月下旬蓮の花が咲き終る頃、池の面を渡る風に秋が兆しはじめる。九月下旬花背の山で秋草を探している問に夕方になると汗がひいて会秋から冬へに肌塞くなる。闘がうっすら色付く。十一月下叫紅葉が散る切には椿の花の色も白、桃、紅とふえてくるむ十二月も半ばを過ぎると、たまに降る小雪の中の亦い実が美しく、冬将軍といわれるような酷しい’Iさは京都にはやって来ないu冬将軍が遠出しながら使節を送ってくるのが底冷え、とよばれる京都の寒さなのであろ・っか。秋せ揃しむ心は秋草間という円本両の特色のあるテlマにもなって表われているο短い秋から、いきなり厳しい冬になってしまう囚には育ち難い感情であろう。村市は暗い冬への前触れであり、表紙のいけ花のように紫仰の枯葉に置かな美しさを見山す気持はヨーロッパ的風土の中では求める事が難しいように思う。ヨーロッパに限らず中間でも、漢民族の本拠が華北にあった情的代の小川では、秋風といえば朔北(内実古)への遠征の苛酷な季節の到来を似わせ、秋鴻(乙うい)の汗にも「古道少ニ人行一秋風勤ニ禾黍一」とあるように陪く淋しい。晩秋には、おだやかな冬の風物を待つ心と共に路傍の枯草をも花瓶に挿してみようという気持は中凶には芹生えなかったムしい。花をいける、或いは飾るという世界に共通した心も、その風土によって少しずつ違った表われようがあ十A下旬山茶花が咲きかけてきてるυ他の分野のととはよく知らない川ぞっ。が、絵や一回刷、文学の世界にもそれはあるのだろう。そんな刊かな逃いを、お互いが尊重しあえば美しい世界が出来上って行くのではないかと表紙のいけ花に紫附の枯葉をいけてみたが、紫闘の枯れる頃には・挺『菊の長が美しくてりはじめ、木瓜の返り咲きが見られるという、庇の一隅を単純に、水盤に移しかえただけのごく平凡ないけ花であるοだが私はとのいけ花が大変気に入っているu脳科の切るい賑やかさの溢れた花をいけるのも来しいが、静かにいける乙の花に、よりいけ花らしさを感じる。表紙と三瓦に紅葉や札業をいけてみたが、三頁のト一には小葉(めぎ)下のいけ花には勺柳制に材料(とげ)があって、花屋では、とりとまらず、と変な名をつけられているυ紅葉と赤い実が美しい。小羊歯に黄色いオンシジュlムをとりあわせると紅葉がひき立ってくる。秋の自然色に温室育ちの闘も色さえあえば議置になじむものであるυ同じように、雪柳の紅葉と白い単弁の菊をとりあわせた所へピンクのデンドロビュ|ム。ファレノプシスを加えると秋のいけ花にも祖か味が生まれてくる。甘から色んな闘の文化を系自にとり乙んで、自分のものにして来た日本人の特性は、いけ花にも及んで、外国原産の蘭も違和感なく秋ヰの巾にとりいれられてしまったようであるu今片のテキストでは晩秋から初冬そして一月へかけての季節感を主忙したいけ花を並べているが、季節感を抜きにした花をいけるのも面白いものである。ガーベラ、カーネーション、アンスリュlム、パラ、グラジオラス、洋耐に観葉植物の葉をとりあわせたり、枯れものをそえてみるようなζとも別代においては当然なことでもあり、又必要なζとであろうο我々の手にするととの出来る花公純一杯美しく生かせてやることも忘れてはばらない。そしてそんな花に見ι親レみを感じるのは、原産地や、円然な生育状態を知るようになった時である。小さな貧弱な花だ小川県は葉の付ったのが、人間とつきあうようになってから、む々と美しく見える方法を覚えて洗練されてきた花を見るのは交の人の成長の一隔を見るようで楽しい。だがあまりにも作られすぎて、けばけばしくなった花は苦手である。だがそれもつき合った人間が恐かったので、花自’は河に罪がある訳ではない。そんな花を何とか上品に見せるよう工夫するととも花をいけ若人がおわなければならない責任みたいなものであろう。仕事にくたびれてくると、ど乙かへ出掛けたくなるが、十一月の下旬になると向処へ行っても人が少なくて良い。乙の原稿を書き終える二十日頃からは午前中は晴れ、午後は北山時雨という京都特有の初冬に入る。午前中なら街の中の本屋を歩いて瑚珠を飲んだり、午後は洛外を版歩して時雨で冷えた体を酒で温めるという有難い季節の到来である。自分で運転する乙とがなくなってから私も歩く楽しみというものをとり一民したようである。郊外でも気の向いた所までタクシーで行き、好きなだけ歩いて、帰りは来たものに乗って帰れば良い。街を少し山はずれれば自動車の通らない道はまだ随分残っている。そんな道もとくに初冬は静かである。私は季節を忘れて仕事にうちとむという性格でないぽかそんな暮らし方をしたい。京都は私に向いた街である。〔表紙のいけ花〕紫附枯葉〔三頁上〕小長(めぎ)花器オンシジュlム〔三頁下〕雪柳紅葉花器白菊デンドロビュlムファレノプシス木瓜北器小羊陶青磁花瓶軸大水盤自制花瓶寒錆飴色

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