テキスト1982
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大政の鶏冠鶏頭(とさかけいとう)は庭には植えたくない花である。岡崎来紅(はげいとう)が広いほに、いろんな秋草と植えられているのは季節感があって良いものだが、鶏冠潟頭は色、形共に強すぎるようK思う。と乙ろが、いけ花として使うなら鶏冠鶏頭の方がずっと良い。腐来紅は水揚げも悪いが、形が単調なのでいけられる乙とは少ない。手許にあるいけ北全集のどれを見ても、鶏冠鶏頭刊に対して岡崎米紅1の別人川でしか作例がない。鶏一此鴻頭は、宝町時代から立花の其や、正門(に使われており、古風な日本趣味を伝承しているが引代の花としても、その強い色彩や、重量感に仙の花では得難い特色があるので、秋のいけ花展では必ず川いられているし私もよく使っているο表紙では吾亦紅(われもこう)をとりあわせ、黒地にくすんだ料が刊かに浮き出た花瓶に挿してみたυ左に突き附した鶏頭とバランスをあわせるため、吾亦紅の後の黄色い鶏頭は後にのばしていけているuいつか男向きのいけ花という事を書いた乙とがあったが、乙の花もその部知に属するようであるυ上図では鶏頭に、七能(ななかまど)と杜鵠草(ほととぎす)をあしらってみたが秋らしい色彩である。料古には大頭の鶏頭でなく小さい黄色の鶏頭を用いれば優しい秋の風景を拍く乙とができるだろう。表紙の花器H黒花瓶。ニ頁の花花器H以色粕深鉢・表紙の花−上岡の花関冠鶏頭、赤、向、黄、吾亦紅、花鶏冠鶏頭、七也、社鵠草外へ出ても九月中は、まだ暑い日が多い。だから夏服がしまわれるのは十月になってからである。夏のものが家の巾で自につかなくなれば秋。家で落着く時が欲しくなり始める。そして平生がさつに過ごしている人も、少しは自分の内面性を深めなければ、といったような気も起とってくる。だから私の教場でも秋になると皆稽古に身をいれはじめたな、ととちらにも感じられる。その所為か、生花の前古を希望する人が出できたりして稽古場が静かに、自分向身の何かを求める雰囲気に満ちてくる。ととろで、生花は難しいもの、と随分誤解されているようである。型としての構成も単純で、一極掃が多く、その場合にはとりあわせや配色を考える乙ともない。敬遠されるとすれば、その理由は他K求めなければならない。理由を他に求める前に、まず生花の単純な構成と、理にかなった挿方をもう一度ふりかえる必要がある。生花は右図のように瓦、一川、留の三枝が芯になって形が定まる。それは天地人、序破急、体用留とよび方が変っても生花の構成の原則であるととは、諸流儀を通じて共通している。図は行の花型鶏冠鶏頭生花雑感真2

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