テキスト1982
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子供達が夏休みになって家にゴロゴロしているのを見ていると、いつの間にか私の子供の頃の夏休みを想い出している。小学校の閣の年一カ月、六年間にして六カ月。その六カ月には子供の頃の想い出の半分近くが埋まっているのではなかろうか。冬休みは正月を中心忙して色々なしきたりを知り、親戚や家族の中での自分自身を考えること、大袈裟にいえば周囲の人間関係に目を聞く機会、具体的に言えば挨拶に連れて行かれたり、年賀客のもてなしを手伝わされたりすることが多く、少し窮屈だが周囲の御祝気分に胡麻化されて嬉しがっていた休みといえる。したい放題に一月暮らせるような気になれるのが夏休みである。日頃したいと思っていることに三日でも四日でも飽きるまで没頭することもできた。和船の櫓をこげるようになったのも、深い所で泳げるようになったのも、分厚い難しい本をはじめて読みきったのも一年生の夏休みだった。自分のことに目を聞くことができるようになれるのは小学校に入ってからだろうと思うが、生涯の好きな乙と嫌いな乙とはその聞に培われて行くに違いない。好きだと思っていた乙とでも飽きるまで充分やってみれば案外つまらなくて他のものに手を出しそれが一生続くこともある。三年生の夏休み前に模型のヨッ卜の材料を買ってもらい、休みになるのを待ちかねて作りはじめ、完成を急ぐあまり、接着材が乾かない聞に次の工程にかかってやり直しをくりかえしたり、下塗りの塗料が乾いてないのに上塗りして汚い出来上りのヨットになってがっかりした乙とがある。工程を順序よく追って行けばそんな乙とにならない乙とを覚えてからは物を作るのが未だに楽しいことの一つになっている。気分転換にいいのが浮き身である。静かな海に仰向きに浮かんで青い空を見ていると何物からも解放され自然の中にとけこんでしまったような気分になれる。父と弟と三人でポカッと浮かんでは楽しんでいた。男として父から自然にうけついで行くものがあるとすれば、そんな時に心の中に受入態勢が育つのであろう。父から与えられた本を子供心にとれはきっと良い本に違いないと信じ、父の知ってきたととを僕も知ってみたいと思い、その本を読みきらせたのは、そんな時に感じとった人間同志という連帯感からであろう。夏休み中に良い乙とばかり学んだ訳では勿論ない。しなかった宿題の言い訳や友達から色んな悪い乙とを教えられ、又自分でも相当よくない乙とを考えついて皆でやったりもした。よくない事については書きたくないので割愛するが、人聞にとって夏休みのようなものは是非必要である。何もしなくていい日、何でも好きなととに没頭できる日がないとその人の心はだんだん乾いて行くようである。忙しい毎日の中でそんな大きな余裕は作り出せない我々ではあるが、せめて過に一、二時間はそんなものが必要である。それをいけ花に見出す人もあるだろうし、ケーキ作りもいいだろう。子供達に良い夏休みを送らせてやりたいが私達も伺かな時間をくりあわせて束の闘の夏休みを充実させたいものである。「いけばなの四季」は桑原専民流盛花、瓶花の基本的な知識を普及させるため先代家元が発行いたしましたが、テキスト掲載中の基本花型と併用して勉強して下さい。「専渓生花百事」は先代家元の生花の作品集として出版されました。当流生花の姿を知る上で貴重な著作です。共に残部がありますので必要な方は家元事務所に申込んで下さい。「いけばなの四季」八、五OO円「専渓生花百事」二O、000円専渓け生花花季の百事四夏休み

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