テキスト1981
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耐臥士口ロ円一細口蓮の関葉色をはっきりと強調させるのに部今白く見え、ピンクも鮮かさを増す。花器を所々に配間すると会場全体にしまりをつけることが出来るのでいいる。地色がトルコブルlの花器は花のの良いものであるυ白いものはよりいけ花展の時でもトルコブルlのいものがあれば買うように心がけてトルコ石の色からついた色名であるが陶芸の方では清朝時代の弱翠紬るο私も威県帝時代のものを持って(ヒスイユウ)とか孔雀柚(クジャクユウ)とよばれているものであいるがいけやすい花瓶なのでよく使っている。胡蝶聞は二本、曲がり具合と花弁の向きに従っていければ無理のない形にまとまってくれる。蓮の葉は庭の鉢植のものをとって水揚ポンプで明馨水(ミョウパンスイ)を注入してある。そうはしても元来水揚がりの悪いものなので長くはもたない。蓮が悪くなってしまった後のいけかえとして、形の似通ったアンスリられるが、ものをとりあわせた方が、満足の行未だに昔のまま演じられる邦楽の世く花になるといえるようである。の花器と胡蝶聞のとりあわせなら後①本音楽論の中で特に興味をもつのはの一程は、色々な花が使えるのではないかと思う。ュlムの葉にかえてみることも考えかえって形や色の違った見る時に表現されるいけ花に限らずこ界にも顕著に見るζとが出来る。日乍d凋IrB次正J}く清るοいつまでたっても素材という言しいのではないかと思っている。手にした一枝そのものを自分の精神か心と思っており、絵具や粘土とは異質な存在と感じているのである。その一枝は自然そのものであり自分をも含めた全宇宙なのである。色と形のあるだけの物とは見ず自然の風姿を手にしているという感じ方をしているのでそれを否定されたら何をしていいのか、いけ花は消えて行く。花を枝から切りとることにしても、切りとられた花と元の枝に対して断絶感は我々は持つてないのではないかと思う。生死一如とか輪廻の思想のある所では切り取られた枝も元の木も別ではない。むしろ切りとられた枝でいい花がいけられた時には良い往生をしてくれたと何物かに感謝する気が起ζる位のものであ葉であらわされる品物にはなっていないようである。この辺にも造型作業とは言い得ない状況があるらしい。思想的な面に限らず感情の働き方についても西欧人との違いは近年大脳生理学の上からも、そのメカニズムの相違が豊富なデータをもって客観的にも裏付けられつつある。日本人の感受性の特異さは植物を一型の尊重に関する点で大きく西欧的一な造形理念とくい違っている。器花(トノレコフツレ一地に黒模様〉10

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