テキスト1981
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ジュlムがへリコニアのどぎつきを前頁のいけ花が夏の涼風にそえるいけばなであるなら、乙の頁の花は強い色彩をうまく若こなした女性のようであるοへリコニアの朱色はとてもきつい。縁の緑がより朱色をきっく見せている。下手に使うと情ないほど嫌いないけ花になるが、葉脈だけが似の薄くて柔らかそうな半透明のカラやわらげている。花器は少し灰色がかった白い陶である。直線で作り上げられて背が高い。色と形で乙の花をのびやかで、すっきりしたものに見せている。カラジュlムは鉢植のもので大きな株のものなら乙れ位切っても又生えて来る。一鉢のうち五枚切って三枚残しているが、二、ば又何枚かいけ花に使える。へリコニアは一本は長く、花瓶の底にとどくようにすると直立してくれる。もう一本は少し短くすれば前に傾けていけることが出来る。カラジュlムを鉢から切る時は大きさや葉の向きが同じにならないものをえらぺは自然とよい配置にいけられる。誰が見ても好感のもてるいけ花と三週間もすれいうのは割合に苦心せずにいけられているものである。いける以前の計算と勘が行き届いているから手早くいけられるのであろう。野子ーも多いがヨーロッパの森の中は馬で走れる。森林地帯に下草が生長しないのである。又小麦畑にも雑草はあまり生えないので播種した後は収穫まで日本の米作りほど手はかからない。ヨーロッパと日本の植物観は本質的な違いさえあるように思える。米に頼り、米が万能であった日本人はその年の米の作、不作に関しては注意力が集中されて、他の植物との関連も相当細かく見きわめていたに違いない。明治になって西欧的な美学がとりいれられ、昭和になってから後れ馳せながら、いけ花も造形芸術の仲間に加わりたいと色んな動きがあったようである。その頃と現在とではいけ花、或いは日本の伝統芸に対する考え方は少し迷ってきているようである。いけ花を西欧での造型芸術と同じものであると言おうとしても比較してみると、どうにも説明のつけられない点が出てくるν制度上の問題も勿論おかしなものでもあるし、型の尊重という態度も西欧的な創造精神とは相いれない。花をいけるに当っても手にした一枝を自分のこれから創造する作品の素材とみなしているかどうかもあやしいものであるυましていけ上げられたいけ花を貴方の創作品ですかと聞かれた場合、そのまま肯定せず、②私の心ですとか、私の自然ですと答一える人が多いと言えそうであるυそ一うしか答えないのがいけ花の場合正白と朱ヘリコニアカラジューム否否花作松9

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