テキスト1981
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−フカ紫黄桔梗Uv器4ワるu京焼の陶磁といっても、他地方京都には永い年月をかけて洗練されて来た工芸の服史がある。同じようなものでもど乙か違うように思うのは京都人の己惚れであろうか。私に一番身近なのは陶芸である。作洋鳳野阪京都では全国の陶芸の様々な傾向のものがすべて作られているようであの窯場のように単一の種類だけしか生産されていない所とは違っる》京焼に対して他地方の窯場の乙とを同窯と呼んだりもしている。そのどこかの同焼風な陶芸も京都で作られると、何となく洗練されたものになるあるυその京焼の陶芸品の中でも欲しくなるのは大抵は私と同年配の人達の作ったものである。日展や光風会の他にも年間その人達の陶芸がまとめて見られる機会も多い。そして大きな展覧会にはその人達の代表作が出品されていて一回見に行くだけで何点も欲しいものが自につく。表紙とζの頁の花器は今年の六月大丸で聞かれた京都在住現代陶芸家展に出品されていたものである。表紙のは竹内真三郎氏、乙の頁のは阪野鳳洋氏のものであるυ欲しいと思うような花器は中々見。花てい私には一番魅力ある陶磁で付かるものではない。それだけに手に入った時は大変楽しいものである。流派によっても花器の好みは随分違っている。小原流は中国の古陶磁の使い方K品の良い巧みさがあるし、草月流は鉄や石等で自流独特の詐囲気を作っている。私の場合は京都の中堅陶芸家の作品を何とか使いとなせるようになりたいと思っている。陶芸に関する私の信条として言えるのは、陶芸に詳しくならないでおく乙と、であるυ陶芸としてよく出来たものが必ずしも私のいける花に向いているとは限らないのである。好きか嫌いかだけを問題にすべきであって良い出来かそうでないかは別の事と考えたい。表紙の花は素子のものである。乙の花器にアテチョークはよくあうに決まっているとりあわせを考える場合大抵は熱帯性の観葉植物を使ってしまう所だが縞薄が案外よくあっている。又為朝百合の大輪も力強くてよい。小型の日本趣味に直せば、矢筈薄と刻、伸一百合というとりあわせと似ているが、見て受ける感じは全然別な世界のもののようである。何とも形界のしょうがないが力強い良い花であるυとの所表紙の写真の印刷が思うように行ってないが、今号から印刷方法をかえて何とか良いものにしたいと思っている。日目者畜花(料彩方容)

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