テキスト1981
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Jム姫柾木も生花の栴古には好適なものといえる。援めやすく枝ぶりも癖がなく基本的な行の花型にも草の花型にも自由にいけられる花である。黄色い縁のものを随甲(ベっとう)〈稽古の生花〉姫柾木柾木というが、それよりもとの姫柾木の方がいけ上りの姿はしまりがあってよい。じめ、五本、七本、九本と数をふやして行くのも稽古の一方法ではあるが、稽古した花を家に飾るという乙とを考慮した場合そうもいかない。行の型で真、副、留の三本からは柾木は葉が多い。そのままいけると、ぼってり肥った花になる。とくに副から胴の下側が太くふくらんで鶏の胸のようになる。又真と副の分かれ目のあたりの小枝や葉が押しあって足もとが開いてしまうので、すかしてやるととも大切であろう。乙の生花は真副胴留控の五本の他に真囲、見越、副のしづみ、胴のしづみ、総囲、留のしづみの六枝が入って十一枝に仕上げられている。花器は保竹(すすだけ)の寸筒なのでとめやすい。生花にも色々な花器を使うが何といっても竹の寸筒で稽古をつむのが一番良いようである。陶器は配り木がすべってはずれやすいし、銅の薄端(うすばた)は良い品が少ない。煤竹のす筒、乾いても割れないので最適のようである。柾女臣ら私達を見下ろしているのである。羨ましいとととの上ない。そんな気持が今に至るまで心の中にくすぶっているので御祭りの手伝いを頼まれると照れくさいが嫌とは言えない。店とよばれていたものが会社になり始めた私の子供時代からは、街の中に住まなくなり郊外で育てられることが多くなったようである。父は東京の日本橋の人であり、母は大阪の立売堀に根のある代々の都会人であるが私は郊外で育った特定の土地を持たない都会人である。友人達も皆そんな連中で、銀座に店があっても家は鎌倉であり、会社は古くから丸ノ内にあっても、遊びに行くのは田園調布の家である。店や会社の所在地は本人にとっての土地或は故郷でもあり得ない訳で郊外の家も移転するととが多い。だから広い意味での東京人であり、大阪人、京都人であって昔の江戸っ子、浪速っ子、京の町衆とは違った気風を持っているようである。これからもそういった人種がふえて行くととと思う。私達の住む中京も店がビルになり店主以下住込みの従業員も郊外に引越し人口が減って来ている。だが私の町は古くからの地着きの人も多く祇園祭をよりど乙ろにして京都の中での自分の町として暮らしている。私にとっても乙乙は安住の地のようである。木(ヒメマサキ〉7

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