テキスト1981
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線鉄薬9 人は花を習い始めて三年たって、一人のいけばなと、もう一人の絵を並べて見た場合おそらく誰もが、いけばなの方に魅力を感じるだろうといえる。ところがその先が問題なのである。絵を習った方の人は、その頃から自分自身の造型理論をうち立てて、それまでにやって来たζとを基礎にして先に進んで行くのである。だがいけばなの場合その先が非常に危っかしい。それまでにやって来た基礎的なことから離れて、どく外面だけの自然を写すだけに終ってしまうか、花を単なる造型材料と感違いして粘土や絵具と同じ、物と見てしまうのである。外面的な自然を追う人の場合、大ていは、うすら淋しいいけばなになるか、どとそこの野に桜の隣に乙の花が咲いていたからといって見境のないとりあわせの花をいけてしまうような乙とをするυそれで向然を再現し得たと満足しているのである。花を粘土と変らぬ造型材料と思ってしまった人は花を誰が見ても残酷な、いたましい姿にしてしまう事になっているのが多いようだ。いけばなの基礎訓練中にしたととは花を箱庭的に自然を再生する方法でもなく、造型材料としての物として扱う技術でもない。花を手にして自分の心の中の自然に問いかけることを習ったのである。いけばなにおける中途半端な自然趣味は野狐禅に近い。又いけばなには近代芸術と一見通じる所があるようにもみえるが、それは仏教とキリスト教を同時に信仰しようとするのに似ている。仏教の方ではキリスト教を別に異としない所があるが、本来のキリスト教の立場からは仏教は相容れない筈のものである。キリスト教会で結婚式を挙げた新婚夫婦が新婚旅行から帰って仏壇に線香をあげて南無阿弥陀仏をとなえ子供が生まれてお宮参りをするのにそれほど抵抗を感じないのが日本人である。中近東で生まれたキリスト教、ユダヤ教、或は回教にしても、そんな事は許さるべき乙とではないのである。西欧文化はそうした根底をもって成長したものである限り、日本的な或はいけばな的な芸術感はどうにも具合の悪いものと考えて当然である。多分彼等の意味での芸術とは呼びたくないに違いない。表現しようとしている内零も異っている所が感じられる。私もいけばなを始めた頃は、いけばなも造型芸術の一つである位にしか思っていなかったのだが、だんだん違ったものであると気付き始めている。昔の花道家はいけばなを西欧的な意味での芸術にする乙とを念願にしていたようであるが、どうもそれは、いわれのない劣等感があったからではないかと思っている。(染7}く付盤)5

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