テキスト1981
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梨鉄線焼〆v花瓶)’b1 絵0 の場合なら模写という稽古もあ紫と白という花のとりあわせは初夏向きであるο秋の終りから春になるまでの問、紫色の花といえば、温室育ちのアイリスぐらいのもので、いけても寒そうで冬K向いた花とはいえそうではない。清涼感の求められる季節にとそ必要な配色だといえる。地味な赤褐色の花瓶の口K梨の白い花をかためて前につき出し、その上の方に鉄線をいけるυ花器の色と鉄線の色を重ねたくないからである。もし白い花器を使ったなら鉄線を下の方に、梨を上の方に配した方が良いに決まっている。だが緑の葉のたっぷりした苛薬なら白い花と白い花器を区切る乙とが出来るから5ページのいけ方も誤りとはいえなり、同じ形のものを何回も同じように描いて覚えるという乙とも出来るが、いけばなではそうはいかない。習い始めの聞は基本花型に従っていけて行くが、一応は型にはめてはい,るものの十人いれば十人共少しずつ違ったいけ上がりになる筈である。絵の場合なら同じ手本で十人が十回ずつ耕古したなら、手本とそう変らない絵になるに違いない。石音像を写生しても、正しく描けているかい稽古と合理性An理性のある洋画の習得方法から見ないかは、乙まかい所まではっきりと判断出来る。いけばなで基本的な型に従っていけて、右に出るべき枝が左を向いているのは明かに間違っているといえるが、ある枝が手木と5佃違つていたとしても他の枝の調子に合わせてそ、つしたのな吉り間違いとは号一に石膏像の写生や、名画の校写のような方法をとろうとするなら、完全に作られた造花でいけばなの稽古をしなければならないだろう。洋画を習うなら石官デッサンからはじまり、色をつける乙とを覚え、ある程度までいけば油絵具で描くという順序になり、原則に忠実に進んで行く乙とが出来るが、いけばなでは洋画での最初石膏のデッサンに当る時から原則や手木より自分の手にした枝の方が大事なのである。原則に忠実に、しかも客観的にもれば、いけばなの習得方法は格段にむつかしいものの筈である。一見原則にあてはまらないようなことを直感で解決して行かねばならない。それにもかかわらず押えばいけばなは上達するのである。おそらく西欧的な論理で説明するのがむつかしい内容を含んでいるのであろう。一応花がいけられるようになってからも考えなければならない問題も多い。例えば同じような人が二人いたとして、一人が絵を習い始め、一4

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