テキスト1981
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lvhu 判NVポリアンサス(染付水盤)めたいものである。と言っても古いものにしがみついているだけでは能のない話で、新しい変ったものの中から良いものをえらび出す力は養なっておかなくてはならない。梅のいけばなから話が横道にそれたようであるが、それ程変ったいけ方をしていただく必要のない花だと言える。それよりも、手にした枝とよく相談しながら、或る梅の枝は、「あまり無理しないで」と言うかも知れないし、仙の枝は「少々無理しでも、乙んな姿に」と注文をつけてくるかも知れない。そして目新しさをねらうより、一見何の変りばえもないようでいて、見飽きのしない花にいけていただきたい。梅とくらべれば桃はいかにものんびりした豊かな花である。梅で、しかも苔梅の雛祭では幼い娘達には気のむである。梅なら京都で三月には咲いているのに、自然の開花期には未だ早い桃が雛祭りの花にされているのも単に習慣や伝承の故ではない。梅を雛祭りの花にしようと思えば故事来庇はいくらでもくっつけられる。幼い娘達に雛の祭りを祝ってやろうとする時の親の気分が乙の花をえらび出すのである。桃は優しくいけたい。花をたっぷりつけた枝を長自にとると賑やかに禍かなうるおいがただよう。注意して花をおとさぬよう束をほどき、枝先から水際まで全部が咲ききるのを見られるようにしてほしい。手荒にあっかうと花は皆落ちて棒をいけたようになってしまう。2ページの梅は、デンドロビュlムを水盤の右後に2木、梅の枝をすかして見せるようにいけ、梅の水際にはミリオクラタスの葉でそれぞれの枝の足下をか乙うと同時に緑を加えている。花器は白磁の古い型のものである。梅は花器の円から高さは却価位のものだが、前後の奥行は約卸価とっている。それだけ奥行をとっておくと枝の重なりが美しく見られる。梅のように枝の交差する花は奥深くいけないと、乱雑さだけが自についてしまう。3ページの桃は高さ約印佃、は水の中まで枝を見せていけた。下の方の花も見せたいので、そのようKいけたが剣山は小石でかくしている。ポリアンサスは白花の小鉢植えのものをそのまま水盤にいれている。花器は染付。家K古くからある水盤の中でも私の好きなものの一つで乙の花器にも随分色々な花をいけている。晩秋から春先まで、木瓜、桜、梅、桃と閉じパラ科の花木をいけ移って行くが、それぞれの共通点と相異点。見てるだけでは感じなかったものを自分でいけてみて初めて知ることができる。そして知れば知る程感じとるものも多くなって行く。左側3 杉じ

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