テキスト1981
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梅デ.ンドロビュミリオクラダスlム(白磁水盤)梅から桃へと季節も移り変って来た。梅はお正月花としていけたあとに稽古では二月の花になる。京都には梅の名所や言い伝えも多い。古い良い庭のある家には必ず梅が見られるが桃が少ない4宇治の黄葉山万福寺の扉や幕に赤い桃の実が描かれているのが名高いくらいのもので桃の名所や名木はあまり聞かない。以前私の家の庭にも桃の木があったが、濃いピンクの花を見上げる時の四月の青空は、いつもの空より青味が冴えているように感じられる。以前は伏見の桃山に桃の木が随分あったようだが今は家が建ってしまって行って見ても分からなくなってしまった。梅は寒冷な土地で育ったものの方が良い。厳しい冬を何十年も耐えて来た老梅の枝先に咲いた一輪は私達に何か言葉少なK語りかけてくれている。老僧の前に坐ったような気がしてくる。梅は楚(ずわえ)が垂直に、斜にのびた大枝、その大枝から出た小枝が複雑に交差しあっているが、形のとりよい花だといえる。日本画にも梅の絵は多い。だから誰もが梅の姿梅から桃のイメージを心の中に抱いている。いけようとする形がすでに育っているのである。その意味ではいけよい花なのであるが、自分自身で梅の姿の中から違った感じをひき出して来るのはむつかしい。いけばなの方で良い枝ぷりと思われる梅ほどいけてみると形にはまったいけばなになってしまうのである。梅の枝をただ変った枝にいけるだけの所までは誰にでも出来るととだろうが、変っていて、しかも良いものをいけ上げるのには大変な花である。私の学生時分は殆ど毎日銀座に出ていた。飽きもせず色んな店をのぞくのだが、銀座の乙とだから、その日、その日と変った物、新しい物が自につく。といって変ってるから、或いは新しく作り出された品物だからと言って全部が全部欲しくなるようなものではない。ただ変っているだけに過ぎないのである。人の自にはっきやすいだけのことである。だが時たま変っていて、しかも本当に良いものがある。変っただけのものは、或る程度の努力で作り出せるだろうが変っていて、しかも良いものは中々出来るものではない。反対に変りのないように見えるものの中にも質の高低は、はっきりとしている。どく普通に見えながら、その良さが分かった時見惚れてしまうものもある。私達は変ったものにとびつきやすいが、よくよく見きわ~ 2 毎

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