テキスト1981
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石川− JV 昨夜おそくまでζの号の原稿を書いている問中雪が降り続いていた。夜半には屋根も真白く、庭木の葉にも積もり冷えこみもきつくなってきた。京都の底冷え、車の脳音も途絶えて外の寒さがしみ透ってくるような夜である。『あり餅』今朝は格北に用事があったのを口実に少し散歩して来た。明るい日差しのせいか北山の白さほどには寒くない。玄琢から下って、今宮神社に寄ってみた。というのは久しぶりに今宮神社の「あぶり餅」が食べたくなったからである。ご存知でない方もおられると思う。「あぶり餅」は指先ほどの餅を手荒に割った竹串の先にさして炭火で焼き、白味噌の蜜をつけただけのものである。まるで芝居の書き割りのような「あぶり餅屋」が二軒、参道をはさんで向かいあって、同じようなおばあさんが客を呼び乙みながら「あぶり餅」を焼いている。店先は私の子供の頃から変っていないし、父の子供の頃からも変っていないそうである。おそらく江戸時代からの面影を残した社頭風景なのであろう。たべながら向かいの店のたたずまいを挑めているとこの一郭だけは時代が違ってしまったように感じられてくる。今宮神社でもう一つ好きなのは絵馬である。随分きたなくなって何が描いであったのか分からないようなのもあるが、乙の絵馬舎にはつい足7J ね乙ゃなぎの類はお生花にいけてから二、三日たった頃が美しい。というのは、いけた時点では不揃いな方向にバラバラになっていた芽が全部上向きに揃ってくるからである。ね乙ゃなぎは生命力の強いものでいけられた花瓶の中で根が生えてくるのを皆さんも経験なさった乙とだろうと思う。残り枝を土にさしておくだけで生長する。ある稽古場で「ね乙ゃなぎはそのまま土にさしておいたら根付きますよ」と言った処、お生花のまま土にさしてしまわれたことがあった。まさかと思うが、そのお生花の形のままで根がついてしまったととがある。日ページの生花とは違ってこの生花は充分に杭古をかさねて思うようにいけられるようになってほしが向いてしまう。何の絵がかかっていたのかすぐに忘れてしまうからこそ又見たくなるのだろう。以前玄琢に住んでいた頃は、乙の今宮神社の「やすらい祭」が面白くて毎年楽しんでいたとともあった。京都でそんな楽しみを追っかけて暮らしていたら仕事をする暇もなくなってしまうにちがいない。赤芽柳の生花心、牙赤(茶色花瓶)11

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