テキスト1981
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’LV 10 淡い朱色のパラは暖かさに満ちている。今日此頃の寒さにはこのパラの色調は心の暖房になる。花器も木製なので中し分ない。新芽がひらいたばかりの斑人のガクアジサイが色調の暖かさに若々し力をそえているυいけばなはとりあわせで、半分以上きまってしまう。どんな形にいけようとそのいけばなから与えられる感じはとりあわせに支配されるυ私達の午前中は花屋と、その日の稽古花のとりあわせの相談で過ごす。電話ですむ場合もあれば、出かけて行って品定めする乙とも多い。その羽入荷した花を一本ずつ全部見本にもって来てもらってとりあわせをきめたりもする。丁度料理屋の主人が魚屋とその日の仕入れの相談をするのと同じである。慣れた店ならど乙産のどんな魚が入荷しているかは電話ですむが、でもやはり出かけて行って自分の目で見てからどれにするか決めたいと思うのが当然のととである。パラ一つにしても、品粧名まではっきり分かっているものなら電話ですむが、乙のページのパラのように色や花弁の形が少しだけ違ったりしているパラは電話では分かりにく「花は足でいけろ」を考えなおすぃ。又瓶花や盛花の場合なら枝物でもそれほど詳しい姿が分からなくてもよいが、立花や生花の稽古の場合は電話での話では中々うまくいかな「いけばなは足でいけろ」という言葉があるが自分で山野を歩いて花を見付けろ、そして自然の状態をよく知らなくてはならないと古人は教えている。花をいける第一条件として大切な事である乙とは昔も今も変りはない。その上で大切な乙とは、花屋を知るということである。自分の足の及ばない所は花屋の力をかりなくてはよい花は手に入らない。特K最近のように開発が進み、或いは勝手に切って持って帰る乙とが難しくなったのでは、自分の手で充分な花を集めるととは不可能である。又自分で行ける範聞はたかが知れたものである。「花は自分の足でいけろ」という言葉の意味は花に対する自分の感情や知識を豊かにしろ、ということだと解釈していい。そう考えたなら単に花を見るだけでなく、門然の美しきゃ、人聞が色々の面で見せる美しさにも自分の感覚の足をのばさなくてはならない。花をいけるととの背後にはその人の、それまでにとりいれた感覚の大きな積みかさなりが、かくされているのである。たかだか加分でいけ上がるいけばなにもその人の教養の蓄積が大きく働いているのである。関入りガクアジサイ朱色パラ(花器・チーク材サラダ入れ)ι命い7

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