テキスト1981
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三つ口のあるとげ茶色の花器の心の肌仰にもなるのである。好きな花があったとしてもいけばなを習ったのと習わなかったのとでは花の見方も大きな違いがある。花を習わないなら習わないで良い。自然に咲いたままの花を咲いている所で心ゆくまで眺めるのも大きな楽しみである。だがその花を一枝でも折りとったなら、それを存分にいかしてやりたいと忠わない人はない。存分にいかしてやるにはどうしてやったら良いのかと考える所からがいけばななのである。枝を折りとり、花の茎を切りとって、ただそのまま花瓶にいれてやっただけでは、元の花の良さはもうない。余程よく自然の花を観察してないと折りとった枝は元の自然を再現し得ないものである。桜は桜自身で何かその桜がどんな風に咲きたいのか、意志に似たようなものもあるように見える。そこを何とか知ろうと思って一生懸命になってるのがお花の先生であり家元である。一のシーズン中毎日毎日稽古で見ていれば、乙の花は乙んな風っては可哀そうだな、位の事は自然にわかってくるものである。稽古の時に教える内政什には、そのようなことも含まれている。冬の花はもちがよいということから色々と、いけばなを習う乙との意味や目的を織ってみたが、習う方の努力も大変だが、私達の方も皆さんつの花について、その花ιいけてやの進歩に見合うだけの勉強をしなければならないのも勿論である。一年前まで乙れで良いと思っていたζとでも、自分の進歩で見直さなければならないことも出来てくる。昔からの経験も大事にしなければならないが、花の栽培技術の変化や輸入花丹の増加した昨今考え直さなければならないことも山程ある。その上に日本の自然以外にも遠かった外国の自然も身近になってしまっている。与えられるものの変化が多い現在、自分らしいいけばなをいけるという目的ではじめたいけばなの稽古も、よく考えでかからないと、ただの花飾りに終ってしまう乙とになりかねない。好きな花を好きな型にと説明して来たが、本当の所は、自分自身の人格を適確に花で表現出来るようになるととが、いけばなの新古の目的なのである。だから私達は皆さんがそれを見つけ出すための手伝いをしているに過ぎない。だがこんな窮聞な事はあまり考えず、充分稽古し花をいけるのが楽しみになっていただきたい。続けてやっていれば必ず面白くなり、好きにもなって行くものである。そして何年か稽古する問に必ず我が家の味とでも言える独特の花がいけられるようになってくれば、私達も一緒Kその楽しみを味わわせていただきたいと思っている。同じ花器と葉黄ラッパスイセンアンスリュームの業3

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