テキスト1981
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朝の問は晴れていた空も午後には曇る。北山がかくれたなと思っていると間もなく中京も時雨れてくる。あがりかける頃には三条の橋の上から見る北山には薄日がさしている。十一月終りから十二月、師走のあわただしさを迎える迄の二句。京都に住む良さが味わえる日が続く。行楽客も居なくなり京都人だけの京都になりきってしまう。そんな日の午後乙の随筆を書いているのだがど乙か鴨川べりにでも僕の書斎があれば申し分なかろう。京野菜が美味しくなり、旬の魚艮類に丹後の一塩物の魚も京都ならでム口小はという味になる。間鴨(あいがも)も鴨も店先に並ぶ。天高く馬肥ゆる秋、という形容は大食を感じさせるが今は味わいの静かさがある。中庭の山茶花に小鳥が来ている。少しずつ聞をおいて次から次へと何碍類かの鳥がとんで行く。東山沿いの家の庭では一日中見飽きない程色々の鳥が渡って行く。赤い小さな実を少しつい、はんでは南の方に向かうようである。禅寺の庭も落着いて見に行けるようになる。紅葉が落ちつくした後の苔と白川砂が一人でゆっくり眺められる。それほどではないと思われている庭でも大ぜいの人の聞から見るのと大追いである。知り合いの家の庭に居るように落ちついてぼんやりと時を過ごせる。大原あたりは夕非時がいかにも裕外、静かでひなびた村である。容れかけた八瀬を通って街中に一民る。温かい夕食と、その日一日の話題、そんな日には次から次へと話はっきない。景色の話から絵の話、読んだ本、食事に随分時間がかかってしまう。そんな夜はやわらかく外気をさえぎる障子のはまった京都らしい部屋に居たい。大きなガラスの窓が温かそうにくもり、料理の香料や油の食欲をそそる香りで一杯の室内から通りを眺め’L 風といっても土地によって色々とるのも川−以かな気持を味わえるが銀座か神戸での方がいいようである。風に木の葉が舞う頃、夜中に賀茂川べりで樺の遣い落葉を見た乙とがある。夜おそく山町から賀茂川の左岸を北向いて走っている時、急に風が吹き出して樺の紅葉が一斉に散り始め、ヘッドライトに照らされた前方が木の葉の万華鏡というのか、黄赤、茶色、乙げ茶色の樺の葉が漆黒をパックに散り舞い、後に流れて行く。その後もその頃になるともう一度見られないものかと期待しながら通るのだがその時だけの経験らし感じが迷うο北陸の曇り空に風が渡ると冬仕度を急がなければと感じるだろうし、南国土佐あたりでは「おお、冷(ひ)やいのお」などといいながら余り長くもない寒季をのんびり迎えようとする。東京は御存知の空っ風、風吹く下町の初冬はわびしくて嫌なものである。十二月も半ばを過ぎると京都は歳末らしくなってくる。仕事柄花市場の話が色々と耳に入る。お正月用の花は松は松市が十五日とか毎年定まった日に梅、松、千両の市が立つ。花屋も今年は何が良いとか得だとか教えてくれる。栽培技術の発達で年々よくなって行くもの。開発が進んでだんだん少なくなってしまう自然育ちの枝物υ乙の十年でも随分お正月花もうつり変っている。まして父の若い頃の暮れの花とは大違いである。松の枝振りの良いものは少なくなったかも知れないが、明るく楽しい花で品のあるものも数多い。ヘッドライトに照らされて飛びかう木の葉も提灯とろうそくの時代には感じられなかった現代の京都の初冬の美しさであろう。十二月の二十円をすぎると寒さの早い年には北山や嵯峨野の薮椿や山茶花にうっすら雪がかぶる。夕方など雪をかぶった葉の下に見える紅は見慣れてしまった、乙の花に対する目を洗ってくれる。肩書がおさまった頃嵯峨の奥の方から見ると、京都の街は少し変って見える。周囲の山の上から見る京都と違って、ゆるやかな傾斜がずっと向うの方まで続き、その先が京都の街である。所々雪が白くつもった枯れ色の畑が続き、いつの間にか晴れて冬日のさす嵯峨野の向うに町が見える。この辺は夕十枯れが早い。少し暮色がかかった頃の雪の聞に見える山茶花に見とれているうちに京都の街の灯がはっきりし始めて夜になる。歳末の忙しさの前にひそやかに落ちつける期間のある事は有難い乙とである。私達の年の暮れは二十五日から二十九日まで。その問に全部の稽古場をまわってお正月の花をいける。相当きつい仕事ではあるが賑やかで楽しいものでもある。二十九日が毎年お正月花の宅桁古なのだが百瓶前後の花を見なければならないので一家総出である。長女の桜子は勿論次女のはなまで若松の水引のかけ方を説明している。そんな所から京都の伝統芸、或は家業の根がつちかわれて行くのであろう。暮れの三十日、大晦日の三十一円の錦小路の雑沓も楽しい。家K残る掃除係、外に出る買出し係と大ていの家がそう分かれるのが普通であろぅ。掃除の苦手な私は買出し係である。おそくても三十日の午前中に買物をすませないと売り切れてしまうものがある。行きつけの店には電話で品物を残しておいてもらわなければならない。私の家でも三十日の午後から御節料理の下どしらえにかかり三十一日は一日中台所にこもりきりである。年越そはをいただき、おけら諮りに行く道で子供達が六角堂で除夜の鐘を撞かせてもらったりしながらおだやかな晩秋から歳末までの風物や行事を通り過ごして、京都のお正月を迎える。Vこのごろ12 −・・・

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