テキスト1981
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栗も葉をとり先枝をなくしてしまうと感じがまるで違ってしまう。白黒の写真になると他の花のようにさえ見えてくる。見慣れたものであるだけにその感じを強くうける。いけ花ではその草木の特色を大なり小なり強張していけているが、その限界は大変むつかしい。生の草木を水の入った花器にいけていてもその変型の仕方によって、いけ花として通るかどうか微妙な限界があるようである。西欧的な装飾性を主にした花の使い方υ造型芸術の素材としての植物の扱い。それと一般的にいけ花と恩われているものとは、はっきりした違いが感じられているのだが言葉でうまく説明が出来ない。乙の花あたりがいけ花の限界ではないかと思える。斬新なものにも芯からいけ花らしい感じの与えられるものもあり、自然でありながら造り物のように見えてしまうものがある。考える手がかりとして、或は一つの基準として、その草木が生命をもって生き続けるであろうという感じが与えられるものがいけ花であろうと考える乙とが出来る。このままでいけばなの限界は死んでしまうと感じさせるのはいけ花から遠くなって行くようである。又その色と形だけとり出して配列するだけなら装飾と吾一守える。その生命を無視してしまうなら彫刻に近い。生きていて成長を続けそうに見えるようにいけるのがいけ花なのではないかと思う。だから葉をとった枝には一緒にいけた他の花の葉が代りの役目をしており、落葉した冬の枯枝には椿の緑を充分そえてやったりもする。枯葉一枚でもそれが生の方向に感じさせる乙とが出来ればいけ花であると言えるが、いけた生命のある一葉が枯死の方向に向かっているように感じさせるなら何か残酷に見えていけ花とは思いたくなくなる。切りとられた花はやがてはしおれてしまうのには違いないが、切りとられる前より強い生命力を感じさせる花がいけられるようになれば大したものである。いけられた花にどれだけの命を見るかは、それを見る人の花に対する気持の深さによっても違ってくる。古人はいけられた花がいけ花になっているかいないかを、花が生きているか死んでいるかで判断したようであるが、前述のような意味も含まれている。水々しいうるおいを感じさせてくれるいけ花とは、明るい生命力のあふれるものであるとも言える。栗シンビジューム花器飴色角型花器4

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