テキスト1981
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−フfくガ椋〈写真@〉庭の椋杷とガーベラを曇りガラスの花器にいけてみたο椋相の葉はこの大きさのいけ花には一枚で充分である。ガーベラはオレンジ色と黄色で派手な色彩のものを十本。花器はくすんだ色なのでガーベラの色が鮮やかに見える。黄色の一本を左Kっき出しておく色ガラス器先月号で、私がいけ花をどう思っているかを書いてみた。まだ感想程度の域を出ないが、少しずつまとめて、いけ花とはうことをしっかりした青葉で書きあらわす?もりでいる。いけ花は古くその形をとりはじめた頃から、そして現代において最も盛んにいけ花が論じられている。現代のいけ花論を大別すれば、一つは、復古的な精神論を軸にするもの。一としての責任をとろうとする考え方。前者の言おうとする所は、日本人の自然観から説きお乙し、日本人の特異性を強調しているが、乱得力に欠け、直感に頼って理解しようにも感の働かせようがなく意味がくみとれない。:::、といつは造型芸術の一分野むυ椋相竹の濃い緑は、後がすけてとまとまりすぎた形に見えなくてす見える程度の枚数がよい。ガーベラは子供述の好きな花である。花の絵を描かせると大抵はガーベラの花のようなものを描く。そんな花のせいか、大人にはガーベラはいけにくい花のようである。むつかしく考えず、童心にかえっていけたい花である。後者の場合は、いけ花が西欧の美学の対照になり得る部分があるようにも考えられるので、それにあてはめて論を進めて行けば、前者とくらべて格段に説得力のあるいけ花芸術論が展開山来る。ζの場合いけ花というものが、西欧で一応定義されている芸術と同じものであったかどうかが問題にされるべきである。明治維新後西欧文化のとりいれが至上命題になった頃、当時のいけ花人は多分、どうも我々のやっていることは芸術であるのだろうか?と疑問を感じていたに違いない。以来ななくずし的変容が重ねられてきたが、本質的な相違に関する解答はなされていない。そしていけ花の存在価値を判断する基準が芸術であるかどうかにかかっているようであるが、いけ花というものが、西欧的な定義での芸術であるかどうかが見直されなければならない時期が来たようである。中日竹(しゅろちく)花器8

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