テキスト1981
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いけているが、とのテキストが出る頃にはそろそろ聴が出始めているこ乙ζでは未だ穂の出ていない薄をム」ん」岡山,っ。縞薄二本、女郎花は三本、それに小菊を留、控にいけている。薄の二本は、真、副の二カ所ではあるが、葉をうまくさばくと胴の辺にも業を出すととが出来る。女郎花は見越、副、胸に用いたが見越の女郎花は真と閉じ形に、副も薄と女郎花は二本まとめて矯めておくといけよい。一本一本形をつけていけてノ付くとどうしてもまとまりが悪くなる。薄の葉は最初から指先で矯めておくと水があがらなくても、丸みをもったしなやかな形が保てる。山げられた某は水があがらなくても巻いてしまって真直にならないですむ。九月には秋の七草全部を使って七語いけにするのも好いものである。萩、薄、葛(クズ)袴(フジバカマ)、撫子(ナデシコ)、えに充分手間をかけて、いけ始めた桔回収(キキョウ)のそれぞれの姿をよく見定める乙とから始める。手にした花によってど乙へは何占いうととは一概には号守えないが、真EK薄、見越に女郎花、副に萩、胴応藤袴、留に葛、控に桔梗位がいけょいと考えられる。形もまちまちであり、茎の強さも違うのだから決して無理な使い方は、女郎花、藤しないζとである。そして下ごしらら一気に仕上げる乙とである。菊、、jr’’ 筒女煤るω読書に限らず様々な体験につい読み方かも知れないが、それでもその本の百分の一ぐらいは残っているものである。だから百冊の本を読んで、うまく行けば一冊分の何かが残っているととになる。私の五十年間をふり返ってみると随分多くの本を読み、良いものを見、味わっても来たが、四十才位までは系統立てた知識は求めていなかったと言ってよい。興味のあるものを手当り次第吸収していたようであてもそう言える。だから私の知識にはまとまりがなかったυ四十才台になってようやく自分に何が必要だったのか考えなおし始めている。あまり真而自に勉強していた訳ではないので、自分によくあう部分だけしか残っていないのも反って部作がいいと思っている。哲学にしても、味覚にしてもいくら良いとされているものでも自分にあわないのがあるο嫌々身につけることはないと私は思っている。四十才代でようやく自分の考えてみたいζとの方向が定まったようである。五十才を越えた現在その方向に従って、自分が今迄得て来たものの整理して大ざっぱなまとめをしてみたい。十年単位で考えているが、五十才介では未だ雑文しか書けないだろうと忠っている。六十才台で何とかまとまったものが輩出きたい。ロハド’Hhm 縞薄白花器竹(すすだけ)寸1t ー__.~ __. 種7

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