テキスト1980
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花屋の材料の都合によって、三回も盛花がつづいた。次週は瓶花にしたいと思っている。今日はアテチョーク(朝鮮あざみ)という、珍しい材料だが、重量があって剣山花は立てにくい。剣山の上に穴のある花留を重ねて留める。アテチョークを中央に高く立て、その前へ朱色の姫百合2本、左方へ白菊2本、前方すそもとへふいり葉の八つ手の葉を入れ水際の調子をととのえる。後方深く八つ手を加える乙とにしたが、これは1枚だけで充分である。上方のアザ、、、ががっしりしているので、下部の八つ手で調子をとったのだが、乙の二つの材料にも変化があって面白い。中間の姫百合の朱色が色彩的に効果がある。二輪の白菊も安定感があって形として調和がょいと思う。変った配合である。(国・専渓)私がいけばなをやりはじめたのは十八才だった。まだ学校中だったその年の秋に、父の専渓(十二世)が急の病気で亡くなったので、とにかく後継者ということで、そのころまだ花道がどんなものやらわからないままに後継ぎという乙とになって、あわただしい中に花道家という責任を背負うととになったのである。その年(大正六年)の九月の末花、父に連れられて滋賀県仰木村の社中の人達の立花の講習会に行ったのだが、その帰途、私達とともに仰木の人達が揃って裏山の比叡山横川へ登り、立花の幹集めに行ったのだった。湖が足もとに見え、また反対側には京都の市街が一望花見える辺りまで登りつめたとき、その分水巌を左にとって京都の大原へ降りた方が帰路に近いということで、乙乙で仰木の皆さんと別れ、六十八才の父と私が京都へ向かって歩きはじめた。との道は一般に「きらら越え」といって実に険峻な山路だった。老衰した父の手をひいてこの坂道を下ったのだが、すでに年とった父には全く無理な山路だったのであろう。漸くにして大原の村まで降りることが出来たが、そのときの父は、気息奄奄としてたえきれぬ様な疲労の状態だった。八瀬の村に入ってようやく人力車を見つけ、父を乗せて出町まで入り、その乙ろ動いていた京電出町線に乗り、帰宅したのは夜の十時ころだったと覚えている。それからの父は、疲労のあまり立つことが出来なくなり、二週間後の十月十三日に京大病院で逝去するまで、実にあわただしい瞬間の様な短い時目だった。全く、その最後の日まで、立花のためにその責任を果たしたような終莞だったのである。それこそ、急な異変に混乱した流儀の中で、とりあえず後継者を私に定めて事後の整理にとりか山頂まで登り右方には琵琶かったのだが、そのころは、花道界も京都だけの狭い範囲の交際でこと足りた状態だったので、とにかく京都諸流で結成されていた「温知会」という団体への交際と例月催される生花会へは、十八才の私が顔出しして出品する乙とになった。毎月二十五日に京極錦天満宮の花席で、京都在住の代表花道家達が集まって生花を活けてその技術を競い合うのだが、その夜、一般に公開するととになっていたので、その翌月の十月二十五日から代表として弱冠の私も参加するととになって、いよいよ花道家としてのスタートを始めることになった。そのとろ私は学校中のことでもあり、花道の稽古もまだ始めておらず、との急激な選手交替には、全く手も足も出ない様なあわれな状態だった。玄人の中のうるさ型一の各流の先生方の中に同席して、どうして花を活けたのか覚束ないものだったが、とにかく、どうにかお茶を樹して、その後十年にわたり、乙の温知会の花展で勉強したものだった。どうしてもζの会の中では最も優れた作品を作って、最高の位置を占める乙とが私の欲望だったので、それからの勉強は大変なものだった。教えてもらう師というものもなく、質問する先輩もないという無理な状態の中で、ただ独り稽古と自分の精神力を頼りとして花道に励んだものだ。十年間の下積みの努力はついに結ぼれて、三十才どろには私の生花も広く認められるようKなり、温知会の中でも重要な立場となる一方、大阪への交際をはじめて、大阪花道の文人様式の瓶花盛花の研究に努力したものだった。自然、大阪華道界へ交際の道もひらける乙ととなった。昭和のはじめころの乙とである。このように、私の巣立ちの時代は、全く暗閣の様な出立だった。(専渓)7月19日アテチョークヒメユリヤツデキク9

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