テキスト1980
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るζの古城は全国屈指の名城として知られている。2月倒的日。滋賀県彦根の古城を見学するため名神高速道路に車を走らせる。きのうから雪曇りの琵琶湖の東尾の広い平野は白雪におおわれて寒むざむとした風景だった。二時間ばかり走ってようやく彦根市につく。古い城下町をひと廻りすると、やがて天守閣のそびえる内濠の広場に出る。乙こから廊下橋を渡って「天秤櫓」という城門口より入城するのである。乙の彦根城は慶長五年(一六OO年)井伊直政が関ケ原の戦K徳川四天王の一人として抜群の功をたて、乙の戦K敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長六年三六O一年)上野岡高城から佐和山城へ移ってきた。その後直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せずして病死し、慶長八年(一六O三)その子直継が父直政の遺志を’つけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家肢は特に奉行を差し向け七カ国十二大名に応援させ、元和八年(一六二二)現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に二十年の年月を要したもので、天守閣は昭和二十七年、国宝に指’記され、琵琶湖を背景とす井伊直弼は江戸末期の城主である。時の大老として英明の誉高く政治家として敏腕であるとともに、文雅の道に達し、かたわら茶道花道など風雅のたしなみに優れた名主であった。進取的に諸外国と条約を結び、ζれに反対する水戸薩摩浪士の襲撃を,つけて桜田門外において暗殺されたのは史実によって知られている。さて、彦根城天主閑に展示されている、井伊家伝来の武具古書の中に、珍しくも直弼公の自筆による花道図書がある。「直弼自筆、千分流生花定排」とあって直弼公が花道にも練達の人であったことがうかがわれる。10 ‘司彦根城を見る、,、、

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