テキスト1980
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こ乙数年間、毎日の多忙な生活の中から時間をさいて「桑原専渓の立花」の著作と、その後「専渓件一花宵事」の企画のために、け暮れの生活を送ってきた。本を作るということには全くの素人の私であるのだが、大体文を書き印刷する乙とに興味をもっているのいけばなの宿命専複雑な編集事務や原稿書きに明で、それほど苦にもならないのだが、作る以上はよいものを作りたい、内界のしっかりした価値のあるものを作りたいと思うのは吋然で、また、百年後の新しい附代に見返しても、充分見るにたえる様なしっかりした著書として恥ずかしからぬ様な木でありたいと、心いっぱいに念願する周係から、写真作品にもよいものをと考え、丈茸執筆も充分注意して書くというζとになり、そんなことで制作中の、水い期間は中々大変な努力を要したことになるu絵画や彫刻作品に関する出版物は、作者のそれまでの作品写真を集めて木にすることが一般的で、もちろん作者の展覧会出品写真や、またある期間に制作された作品写真をあつめて収録されるζとが多く、それぞれの努力作の結集であるには違いないが、いけばな作品の場合は、常に新鮮な草木をぷ材として造形する、限られた時間の芸術作品である関係かちり、作品を撮影するために花を活け、短い時間内に作品を作り写真を作る、という特殊な性格をもっているので、その時点において適宵な花の材料を得るとと、写真師を待たせておいて花を活け、直ちに撮影、というあわただしい時間と行動を必要とする。よい作品だから写真にとる、という余裕のある考え方は望まれないのである。写真にとる以上は条件が悪かろうとも絶体優れた作品でなければならぬ、という条件を宿命的に諜せられているのがいけばな写真である。自然草木の取材がよかろうが悪かろうが、それなりに生花作品として優秀でなければならぬという乙とは、まことに難しい仕事といわねばならぬ。しかも、ζれが責任のある作品写真であり、将来にわたって保存される著書に収録する作品写真であるというζとであれば、むしろ峰率の感じは免れない乙とである。さらに、花には季節があり、その撮影時期をはずせば来年までは駄目、という時日の制約もある。自分の作品目を考え、花材を都合よく集め、写真家と打合せて漸く挿花の日時をきわめて撮影するという実際関係においては、中々理想的にはよい作品写真が作れない、というのが実態なのだが、そ乙は慣れというのか、とにかく、押し切って作り上げているのが現状なのであるνいけばな写真を作りながらつくづくと考えるのだが、とにかく山来る限りの技術をつくして活け、写真として出来上った作品をよく検討して、よくない写真は拾ててしまうというのが理想的であろうυ初枚撮影して気に入らない写真山枚を捨て、よいものだけを叩枚採用するというととにすれば、まず無難なものが残るに違いない。しかし、思いをとめて作った叩作を捨てるという乙とは中々出来にくいので、その中の駄作写真をも採用する結果になりやすい。乙の思い切りの悪い駄作写真が掲載写真全体に悪い印象を与える乙とになりやすく、いつまでも悔いを残すことになる。乙の辺がむずかしい問題なのである。写真師の撮影技術が優れておらねばならぬことは当然であり、絶体信頼のおける写真家でなければならぬ。るυ例えば、別作の作品をならべて花展を撮影日には余裕たっぷりとした材料を揃え、花器も自由にとりかえ得る程度に、ゆったりした条件をととのえておくことが先決条件である。それでさえも、なおよくない作品写真は捨てる、という考え方が必要なのである。いけばな展の場合も同じζとが考えられひらく。普通、印作の出品の中で加作程度も優れた作品があれば、よい質の花展といえるのだが、一般的には印作のうちに叩作も佳作があればよい方で、中には5作程度までも見るべき作品がなく、ほとんどが駄作というのがあるu花展でも悪いと思うものはとり捨てればよいのだが、実際問題として不可能に近い。悪いものを捨てとり去り、よいもの数点だけにして花展をひらくという厳選主義にすれば理想的だが、短いいけ込み時間に作り上げた作品を折てるというその様な酷しいことは、実際に行なわれるものではない。絵画のように長期間にわたって制作し、その期間を通じて検討し、修正し、反省して作り上げる作品と迷って、短時間に仕上げるいけばなの場合は、条件の悪いことは実におびただしいといえる。したがって、常に技術の刈総研究を重ねて、どんなに短時間であっても、その財に即応して、優れた作品を作りあげる態度と技術、理解をもつことが大切である。乙れがいけばなの宿命であり、また、いけばなの名手たるべき技術といえよう。渓12

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