テキスト1980
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冬になるとパラも日もちがよい。文人の世界では松とパラのとりあわ新春のせを「不老長春」と称している。乙の花は古風な文人調ではないが選んだ花器と花材から現代のおだやかな文人趣味がうかがえる。灰白色のやわらかい感じの三角形の陶にアロカシヤと松の緑が品良く調和し、ピンクのパラがあたたかさをそえている。余分な色を使わず緑とピンクだけで仕上げた所が良い。松も若松を用い、アロカシヤをそえた所に乙の文人調の花に現代を感じるのである。たυサラノキはインド原産の熱帯植ニセのツバキつばきは「木」へんに「春」をつけて「椿」と書き、春の花とされている。植物学者も春の植物に分類する。とζろが「ナッツバキ」というのがある。葉も花もツバキに似ているが、ツバキは常緑樹で春に咲くのに対し、ナッツバキは落葉樹で夏に咲くので、乙の名がついた。閉じツバキ科ではあるが属も異り、学名も「ニセのツバキ」となっている。乙のナッツバキの大樹が比叡山の浄土院にあり、サラノキといわれ、仏樹の代表とされ、比叡山の三木の一つとして有名になっている。サラノキといえば平家物語の書出し「祇凶精舎の鐘の声、諸行無常の響あり沙羅(さら)双樹の花の色、脱者必衰のことはりをあらはす。」あの沙羅の木で、釈迦が入滅されたとき、その束西南北に二本ずつ並んではえていて、釈迦入滅と同時に黄色の花が自に変ったと伝えられたことから仏樹として大切にされるようになっ物で三Omにもなる常緑喬木。白木では育たない。だが、信仰の念ゃみがたく、いつの乙ろからか、ナッツバキを沙羅の木に仕立てて尊び、寺院に植えるようになったらしい。つまり学名「ニセのツバキ」が、さらに「ニセのサラノキ」に二重のニセをつくったのが真相のようだ。の日光(じっとう)宝鏡寺の月光(が京Kは銘椿が多い。凶作東・霊艦寺っとう)修学院・林丘寺の後水尾法皇遺愛と伝えられるシロワビスケの大木、格中・地蔵院の散り椿、乙れは二十数枚の花びらがばらばらに散り、いわゆる首落ちしない。そのほか修学院・詩仙堂のツバキの大樹、旧家の邸内にも名木は多いが、見せてもらえないのが残念である。円山公園から霊山観音へ通じる下河原の、高台寺の真下あたりで、寺の土加の上に椿の茂っているのを、何気なしに「いい椿」と眺めて通り過ぎるが、あれは月真院のウラクツバキの大木で、近年専門家の間で注目されている。寺伝によると信長の弟で武人かちり茶人になった織固有楽斎(うらくさい)遺愛の椿という。樹齢三百五十余年、淡桃色。一見、ただのツバキの仲間と誰しも思っていたが、よく調べてみると子房に毛があり、ヤブツバキ系でなく、葉の形質からトウツバキでもない珍しいものとわかり、専門家は中国から伝来した特別なもので白木で作られたものではなかろうといっている。安政の大獄をやってのけ、多くの革命家たちを弾圧した伊井大老が桜田門外の変で暗殺された朝、大老が白川を出かけるとき玄関にいけであった椿の花がほろりと首落ちし、大老も見送りの家人もギョッとして不吉を感じたと講談などで語られ、とくに武家では首落ちを嫌って、椿をうとんじたという。しかし椿の風情は十二単(じ?つにひとえ)の貴婦人にたとえたい端正な花である。大昔は常緑瑞祥の樹とされ、椿油は不老不死の薬の一つとして尊ばれたというめでたい植物である。若松盛花ナッツバキ13

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